2013年11月8日金曜日

種を蒔く人が、実を刈り取るとは限らない。

種を蒔く人が、実を刈り取るとは限らない。
だから、刈り取る人より種を蒔く人になりたい。

from @bot_muno 

2013年11月5日火曜日

目的と手段の関係。

「一人一人の心が世の中を作るのだから、

まっすぐに道理の通った考え方ができて、

情緒が穏やかで、人を敬う心を持ち、

怒りや怨みに執着しない人が増えていけば、

世の中は良くなるよねー。」

ってのは賛成するよ。


「でも、ガッカイカツドーがそれに結びつくとは、私には思えないんですよ。」


相手が、本来の目的と、それを果たすためにとっているとされる営業&政治活動とが、

結びついていると判断する根拠までも「信仰」の域に押しやって、

新聞やら選挙やらで「戦い」を繰り広げている以上、

結局、言えることは、それだけなんだと思います。

2013年11月2日土曜日

運がいい。

私は運がいい。
だからすべてに感謝が出来る。

これをもし、努力と祈りの賜物だと思うのなら、
その人は一体、何に感謝をするんだろうか。

2013年10月30日水曜日

父の命日

父の命日。
実家に行ってきた。

お仏壇に手を合わせる。
曼荼羅に「何無大師遍照金剛」。

まーこだわりはないけども、この文句も大概アレだよなー・・・と思ってしまう。

ただ在りし日の姿を思い浮かべ、慕った。

何の呪文も唱えなかった。

2013年10月16日水曜日

根性悪。

ー 歴代苦労してきたんだからお前も苦労しろ。
 私だってイジメられてきたんだからお前もイジメられろ。
 私だって我慢してきたんだからお前らも我慢しろ。

そーいう根性悪な人たちって順応性高くて出世してたりするっていうか、
そんな人たちが代々作ってきた世の中なんかなーって思ったりなんかしたりなんかする。

「そんなルールはおかしい、そんなの理不尽だ」って思う人は、
自らドロップアウトしたり、改革しようとして潰されたりして居なくなる。

我慢して耐える、黙って従う、
そういう人のほうが順応して主流になっていく。
気がついたら、
傍観者とモンスター◯◯みたいな人ばっかりになってるんだろーな、と。

2013年10月4日金曜日

「守られた」思想。

最近はリアルなS学会信者さんとの交流もほとんどなく、
私の言ってることはきっと、
「現役学会員さんには結構チンプンカンプンな世界になってきてるんだろうなー」
と思ってるんですが、
とある方が、
「悪いことが起こらない事が「守られる」という事では決して無い・・」
って言ってるのをみて、
「それって会内スタンダードっしょ・・・だからこそタチが悪いんでしょ・・・・」
っと、思い出した感覚があるっす。

悪いことが起きても「守られた」と感謝する感覚。

「転重軽受」とは
過去世の重い罪業によって、今世だけでなく未来世にわたって重い苦しみの報いを受けていかなくてはならないところを、現世に正法を信じ、弘めると、その実践の功徳力によって重罪の報いを軽く受けて、罪業をすべて消滅させることができる。

この考え方によって、学会員さんは、
死なない限り、どんな災難が起きようとも、
功徳力によって軽く受けることができた、「守られた!」と考えることができて、
なにが起きようと信仰に感謝することができるようになる。

で、それもこれもすべてS学会を世に広めてくださったセンセーがいて、
そのおかげで学会を知ることができた、
そして、信心をさせていただけたのだから、
師恩に報いなければ!っていう感じで発展していく。

なにがあろうと感謝できる心、功徳と受け取る「心こそ大切」………とは、
そういう落とし穴にハマることを言う。

で、それを落とし穴だとわからない人たちが集まって、
「我らの教団」を断固、護り抜く。


出来事そのものに変化はなくても、
感謝で受け止めることが出来るようになれば、心は平安だろう。
それが信仰の効果なんだろーし。
ただしかし、S学会の場合、
その感謝は指定される「恩返し」で表さなければならない。

その結果、勧誘と新聞販売と票集めに一生を捧げる「活動家」として
生きる道を「選ばされる」んだ。
使命の喜びとともに。


ーーーーー
ついでに言っとくと・・・
信心と祈りのおかげで、
悪いことが起こらなくなっただとか、
私の思い通りになっただとか、
そういうこと言うタイプも一定数いるけども、
それは単なる「おまじない少女」の延長であるっていう話。

2013年10月1日火曜日

雑感・・・

かれこれ一ヶ月更新してないっすね。

文章をまとめるのがめんどーくさい。
ツイッターのほうが向いてる。。。としみじみ思う今日この頃。

でもでも、ツイッターだと、
「言いたいことが満足に言えるまでブツブツ言い続ける」
という傾向があることに気づいて、
さらに、
「これこれ、これが言いたかったのよ」
ってツイートはスルーされる…という傾向もあることに気づいたので、
これこれってーのを書いてこっかなっと思いました。

はい。

2013年8月31日土曜日

結果は常に「今」だから。

夏の友好期間が終わって、
財務の申込書を持ってきたり、日程表を持ってきたりと、
学会員さんによる地区の家庭訪問が復活しました。

もしかしたら旦那が財務をやりたいと言い出すかもしれないから、
一応受け取った広布部員の申込書。
でも「おまえに任せる」と言われたので、
今年からお断りをすることにしました。

お友達の白ゆり長にその話をしていたら、
「罰が出てからでは遅いから言うのよ」
と、さすがに説教をされてしまいました。

財務をしない・・・ことで罰が出ると思ってるんでしょうか。
そういうところを私は、ぐいぐいと突っ込んでいきたいと思っています。

「罰が出てからでは遅い」というのは明らかに脅されてるのだけど、
多分、彼女は、脅すつもりもなければ、自分が脅されてる自覚もない。
ただ親切で「あなたのために」説教タレてくる。
そんで多分、本心。

責めてるつもりもなければ、馬鹿にしてるつもりもないんです。
誰でも、罰と功徳を振りかざされ、
密な人間関係の中の繋がりを強調され、
退転は堕地獄で、
他に選択肢はなく、
我々だけが正しいと教育されれば、
似非宗教思想に屈してしまう可能性はあるし、
同じ仏教でも、自由と解放の精神を受け止める人もいれば、
厳格なあるべき論と受け止める人もいるわけだけども、
より縛りがキツいほうが「従えば良いだけ」っていう安易さと気楽さを生み出すわけで、
要はアソコは、入り込みやすさっていうのも兼ね備えているわけで。

それで結果的にオーライなら、100歩譲ってそれでもいいのだけども、
その中ですら不満や迷いを抱えちゃってるような人は、
結果すらオーライじゃないっていう悲劇があるわけで。

その友人も、白ゆり長をやりつつ、
新聞や書籍、民音なんかの経済的負担に対してNO!と言い出していて、
それでも拒否ったら罰が出る・・・という観念からは逃れられない状態。

モヤモヤなまま活動する人も、アンチな人も、アンチのアンチなんて人も、
結果はオーライじゃない。

なぜって結果は常に「今」だから。

2013年8月4日日曜日

学会組織=魔・・・という話。

「幹部はおかしいが先生は正しい」

そういう人は多い。
私の身近にいる隣の地区の地区幹部達が、今その状態。
選挙で疲れてしまって、活動への疑問が渦を巻いている。

「でも、みんなそれぞれに先生、先生って言ってるのに、
幹部だけがおかしいってのはおかしくない?」

って聞いてみたら、「新・人間革命の10巻を読んでないの?」と言われた。

読んでない。

旭日大学校(婦人部の新・人間革命勉強会)で読んだのは5巻までで、
それ以降はどうしても読み進む気になれず、
そのあとは旭日大学校も行かなくなった。
(私の不信の引き金の一つが、あの小説だったんす。)

どうも新・人間革命10巻には、学会の選挙運動に関して、

「幹部はおかしいが先生は正しくて、
先生は、会員一人一人を心配して、
学会の将来を憂いておられる。」

というようなことがビッチリ詰めて書いてあるらしい。
(それを書いてるのが池田氏本人という設定を信じるのならば、
自分で言うか・・・それ、っちゅうか、
なんだか言い訳がましい話なんちゃうかなとも思うんですけどもね。)

「じゃあ幹部はおかしいとしとくけども、
新聞にも、活動を鼓舞するようなことが書いてあるけど、
じゃ、新聞もおかしいの?」

と聞いてみたら、

「新聞に書いてあることは基本的には励ましで、
少しおかしなことが書いてあったとしても、
目的を見失わない自分がいれば良いこと。
人に振り回されてはいけない。
人は自分の信心を鍛えてくれる。
人ではなく、先生を見ていれば間違いない。」

って趣旨の答えが返ってきた。
まあ、おかしいな…とは思ってるってことだわな。

要するに、幹部も新聞もおかしなことばっかり言ってるけども、
「先生と私」だけは目的を見失わず、
周りはどんなに変だろうと、一人立つ信心があれば良いのだと。

それってしかし、「組織宗教」として破綻してませんか。
「組織」は信仰心の足を引っ張ってるだけなんじゃありませんか?

それに打ち勝って一人一立つ・・・とは、
創価学会組織は会員にとっての「障害」であるということですか?

一人一人が「地涌の菩薩」であるはずなのに、
幹部会員が他の一般会員の足を引っ張って「魔」の働きをし、
仏の境涯を啓く手助けをしてるっていう話なんですかね。( ̄▽ ̄)

で、それが「仏道修行」だという話なんですかね。

一会員 対 学会組織は、
一修行者 対 魔・・・って言ってるわけなんですかね。

あまりにへんちくりんすぎて、頭が整理できません。( ̄▽ ̄)
が、「無能な部下を嘆く池田氏」という設定が、
最後にして最強の砦となっているのかもしれないと思った次第。

2013年8月3日土曜日

「許さない宗教」



2013年8月1日木曜日

模倣を良しとする人たち。





やっていることはとてもよく似ているのに、
まったく違うどころか正反対の考え方の人たちがいて、
例えば、ニッコリと微笑む仕草をひとつとっても、
朗らかでフレンドリーな性格の人の自然な笑顔、
良い人に見られたい人の笑顔、
明るい人柄に見られたい人の笑顔、
敵意はありませんよという表明の笑顔、
いろんなニッコリがあるわけで。

「模倣を良しとする=意味が分からなくても行動が大事」
なんてことを言っている人たちは、
例えば、
意味が分からない漢文の「お経」を呪文のように唱えることも肯定的に考えるし、
心が無くても、人に尽くすことは福運をつむことになるとか言うし、
でも、
実は意味がわかっていない、
実は相手のことなど考えていない、
・・・・・、
それってとっても重要な事実だと思うんですけども。

本質的に中身が違うってことは、
甘く見過ごして良いことではないと思いますっす。

【追記】ああ、それってもちろん「自分に向ける目」の話だよ。

2013年7月25日木曜日

「何も変わらなかった」と嘆く人へ。



「自分の中に答えを見つける」ということの意味が分からなかったり、
難しいことだと考えてる人がいる。
本当は簡単なことなのだけど、他人からみると難しい。
そこを突き詰めると、真の教育や宗教には、人をコントロールする力は無いってことがわかる。

『あなたの言うとおりにしたのに何も変わらなかったじゃないか。』
といって、誰かを責める人は多い。
私の周りに大勢居る、ソウカ嫌いのソウカ信者さんたちも、
だいたいそういうムードを持ってる。


「何もすることはない。
ただ心を開いて静かに耳を傾け、
あの花の美しさを見つめたまえ。」


静かに「美しさ」を見つめたまえ。
必ず見えるはずだ。そこに「ある」いのちの躍動が。

2013年7月16日火曜日

「人を救う」ということ。


更には魚の釣り方にも色々あって、
釣り場によって獲物が違えば、餌も違う。

様々な手段があって然るべきなんだけども、
この餌こそ正しい!この釣り場こそ釣れるのだ!
みたいなことを言って利権を生み出し、
お客さんを奪い合って争うのが「宗教教団」だと思う。

でも実際は、先人に教わらなくても、
自分で釣り場を探し出し、
ここらの魚は何を食べてるか観察して、
独自の道を行ける人もいる。

どこが釣り場なのか、
そこらの魚が何に食いつくか。

いちいち探求するのが面倒な人や、
それは効率が悪いと考える人、
どうにも観察のセンスがない人や、
急を要する飢餓状態の人には、宗教教団が必要で、
教団に加入して手っ取り早く教えを得たらいいよね。

でも、せっかく教わった釣り場や釣り餌は、永久に有効なわけではない。
状況は刻々と変わっていくから、
「その釣り場で釣れたのは、遠い昔のことじゃったのお。。。」
ってな日が来るかもしれない。
そうすると、また教団に教わりに行く必要があって、
教団への依存は消えることはない。

教団も、信者を確保することで利益を得るから、
そこを離れられない人だけではなくて、
離れられる人までもキープしておこうとして、
「釣り場を教えたのは私ですよね、あなたは私に恩がありますよね」
と言って、人を縛りつけようとする。
そうなればもう、本来の目的を外れた営利団体だ。

真に「人を救う」ということは、
手段を伝授することではなくて、
手段を発見する力を磨き、
自分で道を発見し歩いて生きていける自信を身につけ、
手段を失う恐怖から解放してあげることだ。

依存のとなりには失う恐怖がある。
つまり、宗教とは人を救わない。
「ありのままを見つめる目」「発見する目」だけが人を救う。

ルサンチマンの覚え書き


更にキツネさんは、

「ぶどうには糖分がたくさんある。
糖分の取り過ぎはいけない。
ぶどうなど食べない生き方こそが正しいのだ!」

くらいまで、エスカレートしていく。
終いには「ぶどうを食べない健康法」を世に広め始めるんだ。

2013年7月11日木曜日

「ザ・ルームランナーズ」

むかーしむかしのことじゃった。( ̄(工) ̄)

「家の中は安全で、この中にいることが一番の幸せなんだよ」と教えられ、
外も見えないお家の中で、毎日、
「自分の限界を破るルームランナーによるトレーニング」に励む一団が居た。

「幸せの呪文」を唱えながらトレーニングをするから、
外の音は聞こえにくいのだが、ある時、外からの声が聞こえた。

「なんでそんなところに閉じこもってるの?
外は広くて自由で、風があって気持ちいいよ。
どこまでも走っていけるんだよ。
雨が降ったって、それだって楽しいよ♪」

外は自由だと?・・・心が揺れる。しかし、

「そうだ!これがトレーナー先生がいつも言っていた「魔の誘惑」だ!
奴らは自由でもないくせに「自由」を自分勝手に決めてるだけだ!」

騙されてはいけないぞ!と互いに声を掛け励まし合うが、
仲間の数人が外へ行ってしまった。。。

「あいつらは誘惑に負けたんだ。不幸になって後悔してるに違いない。」
「どこかで惨めに野垂れ死ぬに違いないんだ。」
「たまに家に帰って来るやつがいるが、口を揃えてやっぱりここが安全だと言うじゃないか。」

みんなで話し合い、出て行った仲間を一頻り嘲笑い、こっそり不幸を願った。
そしてまた「幸せの呪文」を唱えながらトレーニングに励む。

ある日、突然ドアを開けて入ってきた新入りがいた。

新入りは、幸せの呪文やトレーニングを見て、
しばらくは感心して、同調している様子だった。

「でも・・・なんか変だべ・・・・。
だって、その呪文やトレーニングの成果って、どこで発揮すんのげ?」

新入りの質問に返ってきた答えはこうだった。

「ここを出ては幸せはないんだ!
ここを出たやつはみんな不幸になるんだ!!
こここそが!!!・・きうおkじぇいkっぉけい×gおい!!!!」

新入りは言った。

「オラ、外からきたげども、そんなことねーべ。
そりゃもちろん、風が吹いたり雨に晒されたりするげども、
それが生きるってことなんでねーのげ。
で、そのためのトレーニングでねーのげ。
オラ、やっぱ、外のほうが好きだべ。」

新入りは出て行ってしまった。

「あいつは魔に負けた弱い人間だ。
今頃不幸になって後悔してるに違いない。。。」

いつしか彼らは、
出て行った仲間たちの不幸を願う呪文を何時間も唱えるようになった。

「新入りは好き勝手言うからもういなくてもいい。
家の中で仲間を増やそう。
そのためには、ここで生まれた若者を家から出してはいけない!」

彼らは「青年こそ宝」のスローガンを掲げ、
無言でルームランナーのスピードをあげた。



次回に続く。。。。わけねーよ。( ̄(工) ̄)

「努力がないときに生じる優しさ」自分の歌を歌え。

君たちは、花をつくづくと見つめたことがありますか。花びらのすべてがあり、なんて驚くほどに的確なのでしょう。しかも、そこにはとてつもない優しさ、よい香り、美しさがあるのです。そこで、人が秩序を持とうとするとき、その生はとても的確になるかもしれません。しかし、それは、花のように努力がないときにだけ生じてくる優しさの質をなくしています。そこで、私たちにとって困難なのは努力なしに的確、明快で、のびやかでいることなのです。
ーー
いつも何かになろうとしていたり、とても注意深く思考を整理していたり、ある思考を他の思考よりも好んで選択するのは、退屈な人物です。このような人物はとてもきちんとして、明確なのかもしれません。的確な言葉づかいをするかもしれません。とても注意深くて、相手のことを配慮するかもしれません。しかし、彼は生きることの創造的な喜びをなくしているのです。
ーー
それで、何が問題なのでしょう。どうすれば、この生きるということの創造的な喜びを持って、感情がのびやかで、思考が幅広くありながらも、生において的確、明快であり、秩序を持てるのでしょう。
ーー
私は、長くふさふさとした尾ときれいな毛をした二匹のアカリスが、十分間ほど止まらずに高い樹で、上へ下へと追いかけ合っているのを眺めたことを覚えていますーーそれはただ生きていることの喜びをでした。しかし、物事を深く感じないのなら、生に情熱がないのなら、君にも私にもその喜びはわかりません。良いことをしたり、ある革命をもたらすための情熱ではなくて、物事をとても強く感じるという意味での情熱です。
ーー
それで、君たちはとても強い感情ーー情熱や怒りの感情を持ち、それらを見つめ、それらと戯れ、それらの真実を見出さなくてはならないわけです。というのは、単に感情を抑圧したり、「私は怒ってはならない。情熱的に感じてはならない。なぜなら、それはまちがっているから」と言うなら、心がしだいにある考えにこり固まって、それによってとても浅はかになると気づくでしょう。君たちは非常に利口で、百科事典のような知識を持っているかもしれません。しかし、強く深い感情の活力がなければ、君たちは香りのない花のようなものなのです。
ーー
若いうちに君たちがこれらすべてのことを理解することが、とても重要です。なぜならそのとき、大きくなって君たちは本当の革命家になるからですーーある思想形態や理論や書物によるところの革命家ではなく、ひたすら融和した人間として、言葉の完全な意味での革命家であり、そのために君の中には古いものに汚染されたしみも残っていないのです。そのとき、心ははつらつとして無垢であり、したがってとてつもない創造力があるのです。しかし、このすべての意義をのがしてしまうなら、生はとてもさえないものになるでしょう。というのも君たちは、社会や家族、妻や夫、理論や、政治的、宗教的な組織に圧倒されてゆくからです。それで、君たちが正しい教育をうけることがとても切実であるわけです。それは君たちがいわゆる文明社会の殻を破って、反復する機会ではなく、本当に自分の中に歌があり、したがって幸せで創造的な人間である個人になるように、助けてくれる先生を持たなくてはならないということなのです。


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2013年7月8日月曜日

「宗教心と美しさ」

宗教的であるということはどのようなことか、知っていますか。寺院の鐘は遠くですてきな音がしますが、それとは関わりがないし、また礼拝や宗教家の儀式やその他の無意味な儀礼とも関わりがありません。

宗教的であるとは真実に対して敏感であることなのです。君のすべてがーー身も心も頭もーー美しさと醜さ、杭につながれたロバ、この街の貧しさと不潔さ、笑いと涙、まわりのあらゆるものに敏感です。存在全体へのこの敏感さから、善や愛が溢れます。そして、この敏感さなしでは、才能があり、立派に着飾り、高価な車に乗り、周到にきれいにしようとも、美しさはないのです。

愛はとてつもないものでしょう。自分のことを考えているなら、愛せません。それは、誰か他の人のことを考えなくてはならない、ということではないのです。愛はあり、それに対象はありません。愛する心は、真実、真理、神の動きの中にあるため、本当は宗教的な心です。

そして、美しさとは何かを知りうるのはそのような心だけなのです。どんな哲学にも囚われず、どんな制度や信念にも閉ざされず、自分の野心にも駆りたてられず、したがって敏感で鋭く、見つめている心ーーそのような心には美しさがあるのです。


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2013年7月1日月曜日

解脱。



高校中退でロクな仕事がなくて、
ナメんなよと自営業をはじめ、
手帳と自己啓発書を片手にがむしゃらに働いて、
会社にまでなった。

業績の悪化と共に燃え尽き、
身体を壊して、うなだれて創価に入った。

身体を治し、結婚したら、
今度は学会活動をしない夫に苛立ち、
思うように折伏が進まないことに焦り、
なんとかして人を変えようと躍起になった。。。


今、創価を離れ、
アルバイトをしながら、
好きなものを育てて作って販売して暮らしている。

時間がゆったり流れ始めた。
時間が私の手の中に返ってきた。
時間が私のものになった。

私はもう「立派な何者かになりたい」などと思わない。
私はもう、生まれ変わる必要はない。
私は輪廻を脱した。

2013年6月24日月曜日

「人材育成」という暴力。

意味のあるものであろうとする。
期待に応えようとする。
必要とされる存在であろうとする。

その心は・・・そうしなければ自分に価値はない・・・。

そうして、
「社会の役に立つ大人になろう。」
「社会に貢献する人材になろう。」
と考えるようになる。

「お前の存在はデフォルトでは価値はない」という
暴力メッセージを受け続けた結果だ。

「役に立つ人材になれ」というのが暴力だということがわかると、
何が良いかって、一番はきっと「カルトに騙されなくなる」ってことだね。( ̄▽ ̄)

「宗教的信念によって行うときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない。」




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2013年6月16日日曜日

私にとってのソウカとは。





「組織は必要だ。一人では信心はできない。」
何度も聞くセリフだけど、本当にそう思って言ってるのかな。
もしそれが本当なら、宗祖こそ、いち早く民衆を組織しただろうにね。

それはウソなんだよ。
組織とは釣った魚を逃がさない為にある。

そんでもって、宗教心と宗教と信仰は違う。

宗教心とは、恐怖なく美しさを知る心。
宗教とは、分断し固定する観念。
信仰とは、拒否と盲目。

最初から自由は許さないという意思が掲げてあった。


山本リンダさんの入会セミナーで、入会しますと手を挙げてしまった後、
下のお部屋でリンダさんを交えた懇談会みたいなものがあった。

そのお部屋に掲げてあったのが「広宣流布」の額縁。

迂闊に手をあげてしまったことを一瞬後悔した瞬間だったけど、
その後の婦人部方の勢いに押されてしまって、
いつしか頭の中で「自分の選択は間違いじゃなかった」と思い込むための作業が始まった。

「広宣流布」とはつまり、宗教的思想の統一を目指すということ。
それは世のため人のためであって、
反発する人であっても、正しく導いてあげるのだから、どれほど強引だろうとコッチが正義なのだ。。。_| ̄|○

そこに始めから自由はなかったんだ。
。。。ということに今になって気づいた。

夢が叶う系自己啓発と願いが叶う系信心


昔、夢を叶える手帳術みたいなのにハマった時期があった。
アファーメーションがどうのこうの言いながらなりたい自分を思い描き、
マインドマップで頭をクリアにしたり、価値観を発見したり、ミッションステートメントがなんだかんだと・・・

その結果、燃え尽きてしまって、そんでソウカに誘われた・・・という経歴の持ち主です。

無意味であったとは思いませんよ。
でも、
他の誰かのようになろう、
使命に生きよう、
ってのは、どこまでも自己暗示と錯覚であって、
燃え尽きてしまったときには、何も持たなかった人よりも脆い。

そう思います。

2013年6月13日木曜日

自称「リラックマ」の胎児の成長記録









リラックマってもうちょい下ぶくれなんだと気づいたよ。

2013年6月11日火曜日

「彼らは妄想を生きる」




これ、すごく気になって且つ腑に落ちないでいる部分。

私が、現在のソウカへの批判を込めて、
こうあるべきじゃないだろうか、
こういう御書の一節はこういう意味なんじゃないだろうか、
という話をすると、「その通りなんですよ」と言って喜ぶ活動家がいる。

先日も私の話にえらく感動して、
「座談会で紹介したいから原稿を書いてほしい」と
依頼をしてきた婦人部の圏幹部がいた。

「そうなんです。あなたが言ってることは正しい。
そのことを分かってない活動家が多いから、やりにくいんですよ。」

みたいなことを言う。

理想を語る学会員はけっこう良い事を言う。
葬式仏教や権威主義におちぶれた宗門を批判する時にはえらく威勢が良い。
筋も通って聞こえるし、
おすがりでもない、ご利益信仰でもない、依存し妄信させるような不自由なものでもない、
宗教嫌いの日本人が偏見を持つような宗教とは一線を画す団体だと自負していて、
「あれ?この人らの言ってることって正しいんじゃね?」
と、批判的な話をしてるつもりが、結論が同じになってしまうことすらある。

で、結論は同じなのに、その後の行動はまったく相容れない。

そこまでわかっているのに、
彼らが実際にやっていることといえば、
座談会や、本部幹部会の放送で、体験や指導を見聞きしつつ、
新聞の多部数購読の推進
公明党支援のお友達の輪拡大やビラのポスティング、
民音チケットやパンプキン、第三文明等の書籍の内部購入推進、
こちらに書いたような財務の推進・・・。

完全に「金と権力」が活動のメインテーマだ。

その活動の場面に、仏法対話など微塵もないし、
さっき語った理想は、いったいどこで実現されてるわけ?
それって関係なくなくなくなくない????みたいな。

「信じていること(理想)」と「現実」の乖離になぜ気づかないのだろう。
なぜ妄想の世界に身を投じ、
己の実際の行動の意味を見つめようとしないのだろう。。。

「一人をどこまでも大切に」・・・



彼女はトリプルワークになってしまって、
休日もなく、とても忙しく働いている。

午前中の仕事がたまのお休みだった日曜日、
ひさしぶりにお子さんとのんびりした朝を過ごしていたところへ、
「エフ闘争へ!」と婦人部軍団が押し寄せたそうだ。

一人でもいいから対話に行こう。
やると決めないからできないのだ。
これが師匠と共に戦える最後の法戦かもしれない。
法戦(選挙)は「魔」がキツく個人を攻撃してくるから、
組織から離れてはいけない。

彼女は、お子さんを家に一人残し、
出かけたんだそうだ。

こんなことがあったんだよと話した後、
「・・・・・・どう思う?」
と訊ねたその心の内やいかに。

2013年6月10日月曜日

果てしない戯言。



御書だとか経典だとか、それは言葉であって、
言葉っちゅうのは説明なわけで、それは「人フィルター」を介しているわけで。

言葉で語りきれないその奥にあるのが「法」なわけで、
それは各々が見出す以外にないわけで。

御書にはこうある…とかいう類いの論争みたいなものは、全部、
「人に依る人」によって繰り広げられる、果てしない戯言である。
と、私は思います。

2013年6月9日日曜日

「法に依るべし。人に依るべからず。という仏教本来の立場とはちょうど正反対になってしまった。」






2013年5月29日水曜日

属人。属事。




押し付ける人間は他人の選択を侮辱している。








劇場型宗教





正義の味方の元に平和は訪れないと思う。





そうか。悪を設定しないと正義の味方ではいられないんだな。
戦う戦うばっか言ってる人たちは、周囲に悪を設定して戦うんだな。
だから罵るのが好きなんだ。

そんな人たちが世界平和って無理だな。
彼らが戦う限り悪は存在するし、もし彼らのいう平和が実現したら正義も消える。
そうすると原理主義者が現れるんだ。

2013年5月22日水曜日

「無解有信の人」



誰が書いてんねん。責任者だせ。( ̄(工) ̄)
まったく呆れた暴論だと思う。

んな小説読んで、褒められたと思っていい気になるアホが山のようにいるんだろうか。

「無解有信」て救いようないアホ状態でしょお。
てか、そりゃ危険人物でしょお。
信じる団体または人が、「これをやれば功徳がある」って言えば、なんでもやるんじゃない?

それを「はるかに尊い人」と呼んで、褒め称える。

「考える前にまず動け。」

聖狂新聞はいまや、狂信者製造紙だ。

『口によく出す言葉の逆が心の深層を映す』



「報恩感謝」の逆はなんだろう。
「師弟」の逆はなんだろう。
その逆を罰する心が、恐怖となって己を律する。

私はそれを「強迫」と呼んでいる。

2013年5月20日月曜日

「教師を神格化してはいけない」


まあ、冗談なんですけども、
要するに、教師を神格化する = 信仰する人々が、
結果的に教師の思想を貶め、ゆがめていく、
その無自覚なままの精神の服従について、
クリシュナムルティという人は語ったんだっちゅうお話。

思想をみよ。人をみるな。
というのは、
いわゆる「依法不依人」と同じ思想。

「罵ってよし」認定。

リンク先は、聖教新聞の切り抜きと、
その座談会の記事。

ニュース 公明党委員長使い捨て

心が荒むから、まじめに読まないほうがよいけども、
これを読んだあと、
ソウカ学会は人間主義の平和を実現する団体だなんて、
どの口が言うだろうか。

どうやら会員に「コイツは罵ってよし」認定を喰らうと地獄に落ちるらしい。
触らぬソウカに祟りなし。くわばらじゃ。
 

「信仰」の正体。


当たり前のことなんだけど、ソウカの活動家は、
新聞の営業マンでもなく選挙屋でもなく、信仰をしている。
信仰とはつまり、教義を信じ、理屈抜きで拠り所とすること。

それは「この人(教団)しか信じない」という宣言で、
部外者を侮(あなど)り、分断し、
教団内の思考回路に自分を押し込めていくってことかも。

私は「無信仰」でいたい。
すべてのものに学ぶ。

たとえ池田某氏であろうと、
「邪教」のお坊さんであろうと、
「外道」の説教であろうと、
ほぉ!と思えば耳を傾けるさ。

それが無信仰だ。

「嘲笑」



正義の暴力。


「こうあるべき、でなければならない・・・・」

って、あなたが思ってるだけでしょ?っていう話が通用しない人とは、
あんまりお話をする必要はないと思うのです。

はい。
 

「自分を生きる」なんて話。



どれだけ気づけるか、それで豊かさは決まる。
だから、決め付けたり、分かったつもりで目をそらしたりせずに、
何に対してもニュートラルに見る。

そのときの、その場の、自分の感受性以外に、何も持たない。
そんな風に「自分を生きる」のが勇気だと思うし、
それが「己心の仏性を輝かせる」生き方と思うっす。

マニュアル抱えて生きるのは、
ある意味、楽がしたいっちゅうズルさだと思うな。
失敗したくないだけなんでしょうけども、
残念ながら、どんだけ避けても失敗も間違いもあるから。
腹くくって生きたほうがいいぜよ。
 

「気づいた人」は誰もが師匠だと思う



知っていることと知らないことの間に、何の溝があろうか。
知識は開かれている。そこに特定の師匠など必要はない。

気づくか気づかないか、そこにこそ偉大さがあるんだ。

「気づいた人」は誰でも師匠。
特定の分野でもいい。
気づいた人はその分野の仏法を観たんだ。

コピーはオリジナルに勝てない。
そのオリジナルの秘密に気づくこと。

それが仏教の道だと私は思う。
 

2013年5月15日水曜日

ノウハウと祈り。




あとはただ祈るのみ…マニュアル本を片手に。

仏教って。


「楽をして勝てるわけがない」



真理へのとびら



昔はちゃんとした扉だったってのは、私がいうのは鎌倉時代のことだ。
昭和の人のことじゃない。

支配されたがる人。




支配されることと引き換えに、
あの人たちは確実に安心感を手に入れている。
「学会は信心の安全地帯」なんていう不思議なフレーズを聞いたことがあるけど、
学会にいれば安心って信じたその時点で、内容はどっかへすっ飛んでるんだから、
いくらおかしさを説明したって無駄なんだ。

それよりも、支配を受けている自覚、
暴力を受けている自覚、
自由でいることには勇気がいるってことを、
気づかせるような波風が必要。

価値と豊かさ


山本かっぱ ‏@shirayuri_kun 5月9日
「価値ある生き方」と「豊かな生き方」の
そのベクトルの違いってのは絶望的に大きい。
たとえ紙一重に見えても。

「私はまさに自ら私の事柄なのであり、故に、私は善でもなく悪でもないのだ」

依正不二



煩悩を強める「祈り」


天変地異の因果関係


環境破壊がどーのーこーのじゃなくて、
罰だとか言い出す人ってのは、総じて命を侮辱していると思います。

「偶有性を味わう覚悟」

2013年5月4日土曜日

「歩く瞑想」

さあ、お散歩にでかけよう。

「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン
プラム・ビレッジ(フランス)のシスターが語る気づきと瞑想

「心の問題は単に体を動かさないことから来る」


これホントだよね。うん。
何時間もマントラあげる暇があったら、
ゆったりお散歩でもするほうがよっぽど良いと思う。

カテゴライズしない。名付けない。




出来るだけ心がけていることがある。
「用語を使わない」こと。

何かと難し気な言葉で、華麗な説明をする人がいるけども、
つい言葉遊びになって堂々巡りの自己満足になってたりするのを見かける。
だから、用語を使わない。
発想を言葉の枠に当てはめない。
カテゴライズしない。
名付けない。

自分もそう。
自ら枠にハマりに行かない。

毎日死ぬ。


睡眠ってのは、ひとつの死だと思う。
その後、起きるか、起きないかの違いだけかもしれない。

拘らない、拘らないことにも拘らない、
信念を決めつけない、背負わない、
毎晩リセットするような、
毎朝生まれるような、
そんな感じで。

2013年4月30日火曜日

「傷つき続ける魂」


この自覚があるってのは素敵だな。
生きてる間に、捨てて行くモノがある。
捨てながら生きている。
今捨てた何かを、自覚できる能力が欲しい。

2013年4月28日日曜日

広宣流布 改め 広宣



広く宣べるだけでいいのだ。…というかそれしか出来ない。
流布に加担する必要はない。…というかすべきでない。

頑張る頑張る言うてる人



苦しい辛い言うてる人


「依法不依人」とは





なんとかして師匠の威厳を保とうと、辻褄合わせに念入りな人たちがいる。
しかし、「依法不依人」とは、我こそ師匠と自称する輩に惑わされるなということ。
ひたすら法を拠り所にし、人の解釈に依るなということ。

「自分に勝つ」とは


体験こそ世迷言である



風邪をひいた → (祈った) →治った → 功徳だ♪
風邪をひいた → (病院へ行った) →治った → 道理。

「イキイキと体験を語れ」などというけれど、
前者のような認知の歪みを露呈して回る時、
それこそが世迷い言であって、仏法を汚す行為であると思うんだよ。

形式は足枷。



形式は足枷だ。
飛べるものに対し、地を歩いてたどり着けと命令する。
それが唯一の道であるかのように教育する。

2013年4月19日金曜日

本当の仏法


師を疑うということ




「依法不依人」とは




「冬は必ず春となる」けどまた冬になる






「論理の欠点は飛躍が無いことです」




発見は飛躍だが、論理は飛躍しない。

形式は未熟な者のためにある



「祈り」と「呪い」


「これが幸せ」という観念



2013年4月14日日曜日

狂信者の脆さ




なぜ「♪」?、信心ストラップって何じゃらほい、
そこら辺はまあ置いといて…………

これらのツイートは6時間ほどで削除された。
以前にも同じことがあったので、また削除するだろうと思って、
覚え書きに引用リツイートさせてもらったもの。

単にサンプルであって、他意はない。
sandai_hiho氏は、最近多忙で体調がすぐれないらしく、
精神的にも不安定なのだろう。
ご自愛くださいとお伝えしたいところだが、
もうすでにいつもの狂信モードに戻っておられるので
心配ないと思われまする。

しかしまあ、狂ってるな…と思う。
すぐ削除したけども、口が滑ったってレベルじゃない。
かなりの思い込みと思い違いを暴露しつつ、
それでも、これほどの疑念を押し殺させるための「脅し」もしっかり効いているわけで。

マゾ的仏道修行に励む狂信者は案外脆いのね。
本質的な理解は抜きにして、
この模倣(修行)に対して、この見返り(功徳)があるという方程式を信じていて、
「これだけやってるんだから功徳があってもよいはず」って気持ちだから、
うまく行かないじゃん…となると突然プツンと糸が切れる。

師弟という模倣、指導という教育が、
悲劇の狂信者を生み出すんだ。
これが模倣の限界だと思う。

こんな人たちを生み出しながら、
大勝利だのよく言うよ。

ほっときゃ良いんだが、
この方とかもそうだけど、
こういう雰囲気の人ほど他人への説教に熱心で、批判に過剰反応されるから、
なんだか迷惑な場面が多くてね。。。

悪徳「功徳」商法

「なぜこんなものを信じてしまったのか」という謎解き

「権威や順応や模倣を完全に無視しなければなりません」

「いつやるか?無理でしょ!」






ヒップホップで学ぶ日蓮 「完全教祖マニュアル」

2013年4月7日日曜日

「信念をもっている限り体験は無意味」である




2013年4月5日金曜日

私の嫌いなソウカの正義。


例えばの話だよ。
困っている人を見て、見ぬフリはできん!と手を差し伸べる気持ちは大事やね。

でもさ、
よし…仲良くなって折伏しよう!とか、
今度の選挙頼めるかも…とか、
新聞頼めないかなあ…とか、
それってもう、善意の仮面をかぶった◯◯じゃんね。

(◯◯部分はご自由にご想像ください。)

「つまり折伏とは宗派的な排他性への批判だった」



皮肉な話だ。
宗祖の後継を自負する団体が、宗祖の願った知恵と平等を誹り、他宗の排他を叫ぶ。

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2013年4月3日水曜日

「君の心は人類です。」

映画館に行くとき、君は映画に出演はしていません。
男優と女優が出演していて、君はただ眺めているだけです。
同じように、心の働くようすを眺めなさい。
それは本当に興味深くて、どんな映画よりもはるかに興味深いのです。
なぜなら、心は世界全体の残滓であり、人間の経験してきたすべてを保持しているからです。
理解できますか。君の心は人類です。
そして、このことを知覚するとき、君は無量の慈悲を持つでしょう。
この理解から大いなる愛が出てきます。
そのとき、美しいものを見るとき、君は美しさとは何かを知るでしょう。

これは形は違えど仏法だ。

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「師弟絶対」


守破離(しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つ。日本において左記の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。 引用:wikipedia

師弟の断絶



2013年3月31日日曜日

「永遠の指導者」

正義。



水戸黄門とひれ伏す人たち。
何かに似ている。

前向きな人。




妙に暗示的な言葉遣いで、前向きなことを呟く人が嫌いだ。
人に「気づきを与えたい」みたいな遠回しで屈折した正義の押し付け。
そして自らの言葉に雁字搦めになる。

2013年3月28日木曜日

すべてに反逆するということ。





「不安ゆえに自由になどなりたくない」のだ。




結局のところ、彼らの主張は、
「こうすれば、成仏できる。幸せになれる。」っていう話なわけだ。
当然、裏返せば、
「こうしなければ、成仏はない。幸せになれない。」って話だ。

で、私は、「彼らの言う成仏や幸せは、本当の成仏や幸せではない」っと言っている。
「それは結構です、私には必要ありません」と言っているんだ。

信心で幸せになりたいと言いつつ、
その条件は飲めませんねぇ・・・というのは我侭だっちゅう話。

あ。だからって学会の現状肯定じゃあない。
いまやその「条件」がおかしすぎっちゅうのは、確かなんだけどね。

私は、学会について、単に不満を述べているのではなく、
根本から否定してるっちゅう話。

だからもう、「愚痴はいけませんよ」ってな説教はやめておくれ。



2013年3月27日水曜日

発見と発明。


ちょいちょいツイッターをしていると、
こんなフニャっとした思いつきも残っていく。

これって結構なひらめきやな。

発明は、発明した人や団体が独占して商売しようとしたりするけども、
発見されたものは、みんなのもの。所有権を主張するヤツは嘘つきだ。

発見されたものは、誰がいつ見ようと自由だし、自由な解釈ができるけど、
発明品には、発明者の意図と注意書きがビッシリ書き込んである。

発明品の宗教は真理じゃないってことじゃないのかなあ。
だって普遍じゃないってことだもん。

一念三千は発見だけど、師弟不二は発明品だ。
因果具時は発見だけど、御本尊は発明品だ。

2013年3月25日月曜日

「新聞啓蒙」に思う。









このご婦人は「財務」を引き合いに出し、
頭割を強制されかけて困っていた地区の人を助けるために一人立ち上がり、
広布のお役に立てたと満足気らしい。

地区幹部たちの中の一人は新聞配達員で、
「80部の新聞はポストに入らないと思うんですけど……」と
そこかよ…ってな不思議なツッコミをいれていた。

実際、こういう場面に遭遇すると感覚が麻痺してしまうけれど、
学会内の問題は、すでに信心云々の話で済まされないという一つの例ではあると思う。

新聞啓蒙、対世帯数200%推進月間について

「文底読み」



2013年3月23日土曜日

かっぱの目的








学会の中の真の理想。。。と書いたけれどね、
例えばそれが「全人類の幸福実現」で、そのために「万人に具わる仏界の生命を湧現しよう」と広める(=広宣流布)のだとして、
そこまでは異論はないよ、もちろん。
そう思ったから入会したんだから。

だけどね、このご本尊でなければだめ、学会でなければだめ、この先生でなければだめ、
そんな「幸福実現の特許を持ってるのは学会です」みたいな話ばっかされて、
それを広めるための活動がすべて正義とされるわけだけど、
でも、学会は正しいみたいな根拠はどっこにもないんだよね、上手く煙に巻いてあって。

それらしき話は聞くけど、ファンタジーだし、
希望と方法をセットに提示されると、暗示的に脅しになってしまって、
よくわかんないけど言われたとおりに戦おうって、
盲目で猪突猛進な人ばっかりになちゃうのさ。
そんな人がいくら仲間を増やしても広宣流布とは程遠いよ。
わけわかってないスタイルだけのコピーなんだから。

仏界の湧現?それは瞬間の気づきのことだよ。
誰だっていつだって無条件にできるのさ。
(こういうと宗教ビジネスが成立しない。だから本来の法華経は迫害されるんだよ。)
そこへ条件をつける奴らは誰一人信用しちゃいけないんだ。
私はそのことを身近な人と、耳を傾けてくれる人に広めたいんだ。

======
ちなみに、それでも正しさを主張するために、
識者、学者、有名人の皆様のご意見などを活用して、
「あの人も言ってる、この人も言ってる、だから我らは正しい」って、
毎日確認のために大声で叫び続けるのがあの新聞だね。

新聞啓蒙、対世帯数200%推進月間について










で、後日談。。。