2013年11月8日金曜日
2013年11月5日火曜日
目的と手段の関係。
「一人一人の心が世の中を作るのだから、
まっすぐに道理の通った考え方ができて、
情緒が穏やかで、人を敬う心を持ち、
怒りや怨みに執着しない人が増えていけば、
世の中は良くなるよねー。」
ってのは賛成するよ。
「でも、ガッカイカツドーがそれに結びつくとは、私には思えないんですよ。」
相手が、本来の目的と、それを果たすためにとっているとされる営業&政治活動とが、
結びついていると判断する根拠までも「信仰」の域に押しやって、
新聞やら選挙やらで「戦い」を繰り広げている以上、
結局、言えることは、それだけなんだと思います。
2013年11月2日土曜日
2013年10月30日水曜日
父の命日
2013年10月16日水曜日
根性悪。
2013年10月4日金曜日
「守られた」思想。
私の言ってることはきっと、
「現役学会員さんには結構チンプンカンプンな世界になってきてるんだろうなー」
と思ってるんですが、
とある方が、
「悪いことが起こらない事が「守られる」という事では決して無い・・」
って言ってるのをみて、
「それって会内スタンダードっしょ・・・だからこそタチが悪いんでしょ・・・・」
っと、思い出した感覚があるっす。
悪いことが起きても「守られた」と感謝する感覚。
「転重軽受」とは
過去世の重い罪業によって、今世だけでなく未来世にわたって重い苦しみの報いを受けていかなくてはならないところを、現世に正法を信じ、弘めると、その実践の功徳力によって重罪の報いを軽く受けて、罪業をすべて消滅させることができる。
この考え方によって、学会員さんは、
死なない限り、どんな災難が起きようとも、
功徳力によって軽く受けることができた、「守られた!」と考えることができて、
なにが起きようと信仰に感謝することができるようになる。
で、それもこれもすべてS学会を世に広めてくださったセンセーがいて、
そのおかげで学会を知ることができた、
そして、信心をさせていただけたのだから、
師恩に報いなければ!っていう感じで発展していく。
なにがあろうと感謝できる心、功徳と受け取る「心こそ大切」………とは、
そういう落とし穴にハマることを言う。
で、それを落とし穴だとわからない人たちが集まって、
「我らの教団」を断固、護り抜く。
出来事そのものに変化はなくても、
感謝で受け止めることが出来るようになれば、心は平安だろう。
それが信仰の効果なんだろーし。
ただしかし、S学会の場合、
その感謝は指定される「恩返し」で表さなければならない。
その結果、勧誘と新聞販売と票集めに一生を捧げる「活動家」として
生きる道を「選ばされる」んだ。
使命の喜びとともに。
ーーーーー
ついでに言っとくと・・・
信心と祈りのおかげで、
悪いことが起こらなくなっただとか、
私の思い通りになっただとか、
そういうこと言うタイプも一定数いるけども、
それは単なる「おまじない少女」の延長であるっていう話。
2013年10月1日火曜日
雑感・・・
文章をまとめるのがめんどーくさい。
ツイッターのほうが向いてる。。。としみじみ思う今日この頃。
でもでも、ツイッターだと、
「言いたいことが満足に言えるまでブツブツ言い続ける」
という傾向があることに気づいて、
さらに、
「これこれ、これが言いたかったのよ」
ってツイートはスルーされる…という傾向もあることに気づいたので、
これこれってーのを書いてこっかなっと思いました。
はい。
2013年8月31日土曜日
結果は常に「今」だから。
財務の申込書を持ってきたり、日程表を持ってきたりと、
学会員さんによる地区の家庭訪問が復活しました。
もしかしたら旦那が財務をやりたいと言い出すかもしれないから、
一応受け取った広布部員の申込書。
でも「おまえに任せる」と言われたので、
今年からお断りをすることにしました。
お友達の白ゆり長にその話をしていたら、
「罰が出てからでは遅いから言うのよ」
と、さすがに説教をされてしまいました。
財務をしない・・・ことで罰が出ると思ってるんでしょうか。
そういうところを私は、ぐいぐいと突っ込んでいきたいと思っています。
「罰が出てからでは遅い」というのは明らかに脅されてるのだけど、
多分、彼女は、脅すつもりもなければ、自分が脅されてる自覚もない。
ただ親切で「あなたのために」説教タレてくる。
そんで多分、本心。
責めてるつもりもなければ、馬鹿にしてるつもりもないんです。
誰でも、罰と功徳を振りかざされ、
密な人間関係の中の繋がりを強調され、
退転は堕地獄で、
他に選択肢はなく、
我々だけが正しいと教育されれば、
似非宗教思想に屈してしまう可能性はあるし、
同じ仏教でも、自由と解放の精神を受け止める人もいれば、
厳格なあるべき論と受け止める人もいるわけだけども、
より縛りがキツいほうが「従えば良いだけ」っていう安易さと気楽さを生み出すわけで、
要はアソコは、入り込みやすさっていうのも兼ね備えているわけで。
それで結果的にオーライなら、100歩譲ってそれでもいいのだけども、
その中ですら不満や迷いを抱えちゃってるような人は、
結果すらオーライじゃないっていう悲劇があるわけで。
その友人も、白ゆり長をやりつつ、
新聞や書籍、民音なんかの経済的負担に対してNO!と言い出していて、
それでも拒否ったら罰が出る・・・という観念からは逃れられない状態。
モヤモヤなまま活動する人も、アンチな人も、アンチのアンチなんて人も、
結果はオーライじゃない。
なぜって結果は常に「今」だから。
2013年8月4日日曜日
学会組織=魔・・・という話。
そういう人は多い。
私の身近にいる隣の地区の地区幹部達が、今その状態。
選挙で疲れてしまって、活動への疑問が渦を巻いている。
「でも、みんなそれぞれに先生、先生って言ってるのに、
幹部だけがおかしいってのはおかしくない?」
って聞いてみたら、「新・人間革命の10巻を読んでないの?」と言われた。
読んでない。
旭日大学校(婦人部の新・人間革命勉強会)で読んだのは5巻までで、
それ以降はどうしても読み進む気になれず、
そのあとは旭日大学校も行かなくなった。
(私の不信の引き金の一つが、あの小説だったんす。)
どうも新・人間革命10巻には、学会の選挙運動に関して、
「幹部はおかしいが先生は正しくて、
先生は、会員一人一人を心配して、
学会の将来を憂いておられる。」
というようなことがビッチリ詰めて書いてあるらしい。
(それを書いてるのが池田氏本人という設定を信じるのならば、
自分で言うか・・・それ、っちゅうか、
なんだか言い訳がましい話なんちゃうかなとも思うんですけどもね。)
「じゃあ幹部はおかしいとしとくけども、
新聞にも、活動を鼓舞するようなことが書いてあるけど、
じゃ、新聞もおかしいの?」
と聞いてみたら、
「新聞に書いてあることは基本的には励ましで、
少しおかしなことが書いてあったとしても、
目的を見失わない自分がいれば良いこと。
人に振り回されてはいけない。
人は自分の信心を鍛えてくれる。
人ではなく、先生を見ていれば間違いない。」
って趣旨の答えが返ってきた。
まあ、おかしいな…とは思ってるってことだわな。
要するに、幹部も新聞もおかしなことばっかり言ってるけども、
「先生と私」だけは目的を見失わず、
周りはどんなに変だろうと、一人立つ信心があれば良いのだと。
それってしかし、「組織宗教」として破綻してませんか。
「組織」は信仰心の足を引っ張ってるだけなんじゃありませんか?
それに打ち勝って一人一立つ・・・とは、
創価学会組織は会員にとっての「障害」であるということですか?
一人一人が「地涌の菩薩」であるはずなのに、
幹部会員が他の一般会員の足を引っ張って「魔」の働きをし、
仏の境涯を啓く手助けをしてるっていう話なんですかね。( ̄▽ ̄)
で、それが「仏道修行」だという話なんですかね。
一会員 対 学会組織は、
一修行者 対 魔・・・って言ってるわけなんですかね。
あまりにへんちくりんすぎて、頭が整理できません。( ̄▽ ̄)
が、「無能な部下を嘆く池田氏」という設定が、
最後にして最強の砦となっているのかもしれないと思った次第。
2013年8月3日土曜日
「許さない宗教」
で、創価学会はどうかっていうと「許す」という事をまったくとは言わないが殆ど説かないわけですよ。これはもう宗門問題関連の言説を見れば分かる事だと思いますけどね。撲滅に関して執着をもって臨め!、みたいな事とかを言ったりしますから、そもそも最初から「許す」という選択肢はないわけです。
— やながー (@paradentana) August 2, 2013
何故、「許さない宗教」としての創価学会が誕生したのか。色々と説明の仕方があると思うんだけど、僕は「真理」と「正義」の唯一の保持者であるという確信から「許さない宗教」が生まれたのではないかなと思っています。もちろん、その他の宗教も真理と正義を掲げてると思うんだけど、+
— やながー (@paradentana) August 2, 2013
殊に日蓮という人の真理と正義に対する拘り、執着というものは尋常ではないわけです。その拘りと執着が脈々と受け継がれ、プライドと裏表の「確信」が許さない土壌を作ったのではないかと。そもそも入会させる事を折伏っていうくらいですからね。
— やながー (@paradentana) August 2, 2013
2013年8月1日木曜日
模倣を良しとする人たち。
同じニコニコしてても、性格が明朗な人と良い人ぶりたい人の違いってわかるじゃん。
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) August 1, 2013
その本質的な違いってのを軽く見てると思うよ、信仰者ってのは。
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) August 1, 2013
やっていることはとてもよく似ているのに、
まったく違うどころか正反対の考え方の人たちがいて、
例えば、ニッコリと微笑む仕草をひとつとっても、
朗らかでフレンドリーな性格の人の自然な笑顔、
良い人に見られたい人の笑顔、
明るい人柄に見られたい人の笑顔、
敵意はありませんよという表明の笑顔、
いろんなニッコリがあるわけで。
「模倣を良しとする=意味が分からなくても行動が大事」
なんてことを言っている人たちは、
例えば、
意味が分からない漢文の「お経」を呪文のように唱えることも肯定的に考えるし、
心が無くても、人に尽くすことは福運をつむことになるとか言うし、
でも、
実は意味がわかっていない、
実は相手のことなど考えていない、
・・・・・、
それってとっても重要な事実だと思うんですけども。
本質的に中身が違うってことは、
甘く見過ごして良いことではないと思いますっす。
【追記】ああ、それってもちろん「自分に向ける目」の話だよ。
2013年7月25日木曜日
「何も変わらなかった」と嘆く人へ。
@krishnamurtibot @shirayuri_kun 数年間にわたってクリシュナムルティの講演を聴いてきたが「何も変わらなかった」と嘆く学校教師になされたアドバイス。
— 小野不一 (@fuitsuono) July 25, 2013
「自分の中に答えを見つける」ということの意味が分からなかったり、
難しいことだと考えてる人がいる。
本当は簡単なことなのだけど、他人からみると難しい。
そこを突き詰めると、真の教育や宗教には、人をコントロールする力は無いってことがわかる。
『あなたの言うとおりにしたのに何も変わらなかったじゃないか。』
といって、誰かを責める人は多い。
私の周りに大勢居る、ソウカ嫌いのソウカ信者さんたちも、
だいたいそういうムードを持ってる。
「何もすることはない。
ただ心を開いて静かに耳を傾け、
あの花の美しさを見つめたまえ。」
静かに「美しさ」を見つめたまえ。
必ず見えるはずだ。そこに「ある」いのちの躍動が。
2013年7月16日火曜日
「人を救う」ということ。
飢えに苦しむ人に魚を捕って与えることで、人助けはできる。しかし、より本質的な人助けとは、魚を与える応急処置をしつつ、「魚の捕り方」を伝授すること。
— 柾 (@masaki_nb) July 16, 2013
更には魚の釣り方にも色々あって、
釣り場によって獲物が違えば、餌も違う。
様々な手段があって然るべきなんだけども、
この餌こそ正しい!この釣り場こそ釣れるのだ!
みたいなことを言って利権を生み出し、
お客さんを奪い合って争うのが「宗教教団」だと思う。
でも実際は、先人に教わらなくても、
自分で釣り場を探し出し、
ここらの魚は何を食べてるか観察して、
独自の道を行ける人もいる。
どこが釣り場なのか、
そこらの魚が何に食いつくか。
いちいち探求するのが面倒な人や、
それは効率が悪いと考える人、
どうにも観察のセンスがない人や、
急を要する飢餓状態の人には、宗教教団が必要で、
教団に加入して手っ取り早く教えを得たらいいよね。
でも、せっかく教わった釣り場や釣り餌は、永久に有効なわけではない。
状況は刻々と変わっていくから、
「その釣り場で釣れたのは、遠い昔のことじゃったのお。。。」
ってな日が来るかもしれない。
そうすると、また教団に教わりに行く必要があって、
教団への依存は消えることはない。
教団も、信者を確保することで利益を得るから、
そこを離れられない人だけではなくて、
離れられる人までもキープしておこうとして、
「釣り場を教えたのは私ですよね、あなたは私に恩がありますよね」
と言って、人を縛りつけようとする。
そうなればもう、本来の目的を外れた営利団体だ。
真に「人を救う」ということは、
手段を伝授することではなくて、
手段を発見する力を磨き、
自分で道を発見し歩いて生きていける自信を身につけ、
手段を失う恐怖から解放してあげることだ。
依存のとなりには失う恐怖がある。
つまり、宗教とは人を救わない。
「ありのままを見つめる目」「発見する目」だけが人を救う。
ルサンチマンの覚え書き
ルサンチマンについて分かり易かった説明は、 「おいしそうなぶどうを手に入れたかったキツネが、どうしてもぶどうを手に入れることが出来なくて「あれは酸っぱいぶどうに違いない!」と思い込む。羨望の対象を否定することによって、気持ちに決着をつけることを指す。」 という感じ。
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) July 14, 2013
更にキツネさんは、
「ぶどうには糖分がたくさんある。
糖分の取り過ぎはいけない。
ぶどうなど食べない生き方こそが正しいのだ!」
くらいまで、エスカレートしていく。
終いには「ぶどうを食べない健康法」を世に広め始めるんだ。
2013年7月11日木曜日
「ザ・ルームランナーズ」
「家の中は安全で、この中にいることが一番の幸せなんだよ」と教えられ、
外も見えないお家の中で、毎日、
「自分の限界を破るルームランナーによるトレーニング」に励む一団が居た。
「幸せの呪文」を唱えながらトレーニングをするから、
外の音は聞こえにくいのだが、ある時、外からの声が聞こえた。
「なんでそんなところに閉じこもってるの?
外は広くて自由で、風があって気持ちいいよ。
どこまでも走っていけるんだよ。
雨が降ったって、それだって楽しいよ♪」
外は自由だと?・・・心が揺れる。しかし、
「そうだ!これがトレーナー先生がいつも言っていた「魔の誘惑」だ!
奴らは自由でもないくせに「自由」を自分勝手に決めてるだけだ!」
騙されてはいけないぞ!と互いに声を掛け励まし合うが、
仲間の数人が外へ行ってしまった。。。
「あいつらは誘惑に負けたんだ。不幸になって後悔してるに違いない。」
「どこかで惨めに野垂れ死ぬに違いないんだ。」
「たまに家に帰って来るやつがいるが、口を揃えてやっぱりここが安全だと言うじゃないか。」
みんなで話し合い、出て行った仲間を一頻り嘲笑い、こっそり不幸を願った。
そしてまた「幸せの呪文」を唱えながらトレーニングに励む。
ある日、突然ドアを開けて入ってきた新入りがいた。
新入りは、幸せの呪文やトレーニングを見て、
しばらくは感心して、同調している様子だった。
「でも・・・なんか変だべ・・・・。
だって、その呪文やトレーニングの成果って、どこで発揮すんのげ?」
新入りの質問に返ってきた答えはこうだった。
「ここを出ては幸せはないんだ!
ここを出たやつはみんな不幸になるんだ!!
こここそが!!!・・きうおkじぇいkっぉけい×gおい!!!!」
新入りは言った。
「オラ、外からきたげども、そんなことねーべ。
そりゃもちろん、風が吹いたり雨に晒されたりするげども、
それが生きるってことなんでねーのげ。
で、そのためのトレーニングでねーのげ。
オラ、やっぱ、外のほうが好きだべ。」
新入りは出て行ってしまった。
「あいつは魔に負けた弱い人間だ。
今頃不幸になって後悔してるに違いない。。。」
いつしか彼らは、
出て行った仲間たちの不幸を願う呪文を何時間も唱えるようになった。
「新入りは好き勝手言うからもういなくてもいい。
家の中で仲間を増やそう。
そのためには、ここで生まれた若者を家から出してはいけない!」
彼らは「青年こそ宝」のスローガンを掲げ、
無言でルームランナーのスピードをあげた。
次回に続く。。。。わけねーよ。( ̄(工) ̄)
「努力がないときに生じる優しさ」自分の歌を歌え。
君たちは、花をつくづくと見つめたことがありますか。花びらのすべてがあり、なんて驚くほどに的確なのでしょう。しかも、そこにはとてつもない優しさ、よい香り、美しさがあるのです。そこで、人が秩序を持とうとするとき、その生はとても的確になるかもしれません。しかし、それは、花のように努力がないときにだけ生じてくる優しさの質をなくしています。そこで、私たちにとって困難なのは努力なしに的確、明快で、のびやかでいることなのです。
ーー
いつも何かになろうとしていたり、とても注意深く思考を整理していたり、ある思考を他の思考よりも好んで選択するのは、退屈な人物です。このような人物はとてもきちんとして、明確なのかもしれません。的確な言葉づかいをするかもしれません。とても注意深くて、相手のことを配慮するかもしれません。しかし、彼は生きることの創造的な喜びをなくしているのです。
ーー
それで、何が問題なのでしょう。どうすれば、この生きるということの創造的な喜びを持って、感情がのびやかで、思考が幅広くありながらも、生において的確、明快であり、秩序を持てるのでしょう。
ーー
私は、長くふさふさとした尾ときれいな毛をした二匹のアカリスが、十分間ほど止まらずに高い樹で、上へ下へと追いかけ合っているのを眺めたことを覚えていますーーそれはただ生きていることの喜びをでした。しかし、物事を深く感じないのなら、生に情熱がないのなら、君にも私にもその喜びはわかりません。良いことをしたり、ある革命をもたらすための情熱ではなくて、物事をとても強く感じるという意味での情熱です。
ーー
それで、君たちはとても強い感情ーー情熱や怒りの感情を持ち、それらを見つめ、それらと戯れ、それらの真実を見出さなくてはならないわけです。というのは、単に感情を抑圧したり、「私は怒ってはならない。情熱的に感じてはならない。なぜなら、それはまちがっているから」と言うなら、心がしだいにある考えにこり固まって、それによってとても浅はかになると気づくでしょう。君たちは非常に利口で、百科事典のような知識を持っているかもしれません。しかし、強く深い感情の活力がなければ、君たちは香りのない花のようなものなのです。
ーー
若いうちに君たちがこれらすべてのことを理解することが、とても重要です。なぜならそのとき、大きくなって君たちは本当の革命家になるからですーーある思想形態や理論や書物によるところの革命家ではなく、ひたすら融和した人間として、言葉の完全な意味での革命家であり、そのために君の中には古いものに汚染されたしみも残っていないのです。そのとき、心ははつらつとして無垢であり、したがってとてつもない創造力があるのです。しかし、このすべての意義をのがしてしまうなら、生はとてもさえないものになるでしょう。というのも君たちは、社会や家族、妻や夫、理論や、政治的、宗教的な組織に圧倒されてゆくからです。それで、君たちが正しい教育をうけることがとても切実であるわけです。それは君たちがいわゆる文明社会の殻を破って、反復する機会ではなく、本当に自分の中に歌があり、したがって幸せで創造的な人間である個人になるように、助けてくれる先生を持たなくてはならないということなのです。
平河出版社
売り上げランキング: 155,632
2013年7月8日月曜日
「宗教心と美しさ」
宗教的であるということはどのようなことか、知っていますか。寺院の鐘は遠くですてきな音がしますが、それとは関わりがないし、また礼拝や宗教家の儀式やその他の無意味な儀礼とも関わりがありません。
宗教的であるとは真実に対して敏感であることなのです。君のすべてがーー身も心も頭もーー美しさと醜さ、杭につながれたロバ、この街の貧しさと不潔さ、笑いと涙、まわりのあらゆるものに敏感です。存在全体へのこの敏感さから、善や愛が溢れます。そして、この敏感さなしでは、才能があり、立派に着飾り、高価な車に乗り、周到にきれいにしようとも、美しさはないのです。
愛はとてつもないものでしょう。自分のことを考えているなら、愛せません。それは、誰か他の人のことを考えなくてはならない、ということではないのです。愛はあり、それに対象はありません。愛する心は、真実、真理、神の動きの中にあるため、本当は宗教的な心です。
そして、美しさとは何かを知りうるのはそのような心だけなのです。どんな哲学にも囚われず、どんな制度や信念にも閉ざされず、自分の野心にも駆りたてられず、したがって敏感で鋭く、見つめている心ーーそのような心には美しさがあるのです。
平河出版社
売り上げランキング: 155,632
2013年7月1日月曜日
解脱。
日々忙しいのだけど、最近は時間がとてもゆったり流れるようになった。時間を自分のモノに取り返したような気分。とても久しぶりな小学生の頃の夏休みのような気持ち。 信心はやめた方が幸せだと私は思う。
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) July 1, 2013
高校中退でロクな仕事がなくて、
ナメんなよと自営業をはじめ、
手帳と自己啓発書を片手にがむしゃらに働いて、
会社にまでなった。
業績の悪化と共に燃え尽き、
身体を壊して、うなだれて創価に入った。
身体を治し、結婚したら、
今度は学会活動をしない夫に苛立ち、
思うように折伏が進まないことに焦り、
なんとかして人を変えようと躍起になった。。。
今、創価を離れ、
アルバイトをしながら、
好きなものを育てて作って販売して暮らしている。
時間がゆったり流れ始めた。
時間が私の手の中に返ってきた。
時間が私のものになった。
私はもう「立派な何者かになりたい」などと思わない。
私はもう、生まれ変わる必要はない。
私は輪廻を脱した。
2013年6月24日月曜日
「人材育成」という暴力。
期待に応えようとする。
必要とされる存在であろうとする。
その心は・・・そうしなければ自分に価値はない・・・。
そうして、
「社会の役に立つ大人になろう。」
「社会に貢献する人材になろう。」
と考えるようになる。
「お前の存在はデフォルトでは価値はない」という
暴力メッセージを受け続けた結果だ。
「役に立つ人材になれ」というのが暴力だということがわかると、
何が良いかって、一番はきっと「カルトに騙されなくなる」ってことだね。( ̄▽ ̄)
人が人材になる過程は、木が木材になる過程とよく似ている - 斧節【onobusi】 (id:sokaodo) http://t.co/m4KabJhi50
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) June 24, 2013
「宗教的信念によって行うときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない。」
パスカルはいっている。 ――― 「人は、宗教的信念によって行うときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない。」(『パンセ』) 【魔女狩り (岩波新書)作者: 森島恒雄 】
— 須孤登摩 (@Initial__s) June 24, 2013
2013年6月16日日曜日
私にとってのソウカとは。
これをはっきり言わないから変な誤解があるのかもしれないから言っとく。私はソウカ学会に不満があるわけではない。改善して良くなって欲しいとか思ってるわけでもない。昔はどうだったか知らないが、私は宗教としてのソウカ学会を完全に否定している。宗教とはプライベートなものだ。組織は不要。
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) June 15, 2013
学会の人はよく「一人では信心はできない」という。それはわけもわからぬまま鼻先の人参を追いかけるようなドーピングをしている証拠。丁寧な理解の上に手探りで進む道は、どこまで行っても一人でしか歩めない。
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) June 15, 2013
励ましや共感がなければ、信仰を持続できないのなら、それは持続するべきではないのだ。
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) June 15, 2013
「組織は必要だ。一人では信心はできない。」
何度も聞くセリフだけど、本当にそう思って言ってるのかな。
もしそれが本当なら、宗祖こそ、いち早く民衆を組織しただろうにね。
それはウソなんだよ。
組織とは釣った魚を逃がさない為にある。
そんでもって、宗教心と宗教と信仰は違う。
宗教心とは、恐怖なく美しさを知る心。
宗教とは、分断し固定する観念。
信仰とは、拒否と盲目。
最初から自由は許さないという意思が掲げてあった。
初めて文化会館へ行った時、壁にかかった「広宣流布」という額が気味が悪くて、怖いと感じた。アレは間違いじゃなかった。思想の統一。白か黒か、敵か味方か。主張をすれば分断は起こる。あそこには最初から自由は許さないという意思が掲げてあったんだ。
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) June 15, 2013
山本リンダさんの入会セミナーで、入会しますと手を挙げてしまった後、
下のお部屋でリンダさんを交えた懇談会みたいなものがあった。
そのお部屋に掲げてあったのが「広宣流布」の額縁。
迂闊に手をあげてしまったことを一瞬後悔した瞬間だったけど、
その後の婦人部方の勢いに押されてしまって、
いつしか頭の中で「自分の選択は間違いじゃなかった」と思い込むための作業が始まった。
「広宣流布」とはつまり、宗教的思想の統一を目指すということ。
それは世のため人のためであって、
反発する人であっても、正しく導いてあげるのだから、どれほど強引だろうとコッチが正義なのだ。。。_| ̄|○
そこに始めから自由はなかったんだ。
。。。ということに今になって気づいた。
夢が叶う系自己啓発と願いが叶う系信心
どっちも燃え尽き予備軍には違いありません。@shirayuri_kun
— 山本かっぱ (@shirayuri_kun) June 15, 2013
昔、夢を叶える手帳術みたいなのにハマった時期があった。
アファーメーションがどうのこうの言いながらなりたい自分を思い描き、
マインドマップで頭をクリアにしたり、価値観を発見したり、ミッションステートメントがなんだかんだと・・・
その結果、燃え尽きてしまって、そんでソウカに誘われた・・・という経歴の持ち主です。
無意味であったとは思いませんよ。
でも、
他の誰かのようになろう、
使命に生きよう、
ってのは、どこまでも自己暗示と錯覚であって、
燃え尽きてしまったときには、何も持たなかった人よりも脆い。
そう思います。
2013年6月13日木曜日
自称「リラックマ」の胎児の成長記録
昨日の毛糸は太かったので、中細に替えて編み直し。マツタケまでできました。 twitter.com/shirayuri_kun/…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月13日
耳がつきましたよ。( ̄(工) ̄) twitter.com/shirayuri_kun/…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月13日
うー?なんか違ってきた? twitter.com/shirayuri_kun/…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月13日
んんん…。 twitter.com/shirayuri_kun/…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月13日
クマ?クマ? twitter.com/shirayuri_kun/…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月13日
ちょい、白い涙出てるけど。( ̄(工) ̄)足どうしようかな。 twitter.com/shirayuri_kun/…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月13日
よお! twitter.com/shirayuri_kun/…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月13日
リラックマってもうちょい下ぶくれなんだと気づいたよ。
2013年6月11日火曜日
「彼らは妄想を生きる」
本来はこうじゃないですかって言うと、その通りだと言う。で、それが現在のソウカだと言う。全く違うものになっているのに、ソウカのどこが間違っているのかが分からない。そういう人が沢山いる。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月11日
掲げている雰囲気は紙一重、でもやってることは全く違う。その言動の不一致の凄まじさはどこから生まれるのだろう。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月11日
@shirayuri_kun 信じていることとリアルとの乖離。彼らは妄想を生きる。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年6月11日
これ、すごく気になって且つ腑に落ちないでいる部分。
私が、現在のソウカへの批判を込めて、
こうあるべきじゃないだろうか、
こういう御書の一節はこういう意味なんじゃないだろうか、
という話をすると、「その通りなんですよ」と言って喜ぶ活動家がいる。
先日も私の話にえらく感動して、
「座談会で紹介したいから原稿を書いてほしい」と
依頼をしてきた婦人部の圏幹部がいた。
「そうなんです。あなたが言ってることは正しい。
そのことを分かってない活動家が多いから、やりにくいんですよ。」
みたいなことを言う。
理想を語る学会員はけっこう良い事を言う。
葬式仏教や権威主義におちぶれた宗門を批判する時にはえらく威勢が良い。
筋も通って聞こえるし、
おすがりでもない、ご利益信仰でもない、依存し妄信させるような不自由なものでもない、
宗教嫌いの日本人が偏見を持つような宗教とは一線を画す団体だと自負していて、
「あれ?この人らの言ってることって正しいんじゃね?」
と、批判的な話をしてるつもりが、結論が同じになってしまうことすらある。
で、結論は同じなのに、その後の行動はまったく相容れない。
そこまでわかっているのに、
彼らが実際にやっていることといえば、
座談会や、本部幹部会の放送で、体験や指導を見聞きしつつ、
新聞の多部数購読の推進、
公明党支援のお友達の輪拡大やビラのポスティング、
民音チケットやパンプキン、第三文明等の書籍の内部購入推進、
こちらに書いたような財務の推進・・・。
完全に「金と権力」が活動のメインテーマだ。
その活動の場面に、仏法対話など微塵もないし、
さっき語った理想は、いったいどこで実現されてるわけ?
それって関係なくなくなくなくない????みたいな。
「信じていること(理想)」と「現実」の乖離になぜ気づかないのだろう。
なぜ妄想の世界に身を投じ、
己の実際の行動の意味を見つめようとしないのだろう。。。
「一人をどこまでも大切に」・・・
母子家庭でお金がなくて財務はできないって言ってた人をみんなで「励まし」てなんとか財務を「させてあげた」。だけど彼女は財務のために借金をしたらしく、返済が苦しくなってトリプルワークを始めた。時間がなく学会活動ができない。それでも「やると決める一念があればできる」とまた「励ます」。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月9日
一人をどこまでも大切にして搾り取る感じと、励まして「財務をさせてあげた」と恩を売る感じが、なんとも絶妙にソウカらしさを表していると思います。@fountain9141
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月10日
彼女はトリプルワークになってしまって、
休日もなく、とても忙しく働いている。
午前中の仕事がたまのお休みだった日曜日、
ひさしぶりにお子さんとのんびりした朝を過ごしていたところへ、
「エフ闘争へ!」と婦人部軍団が押し寄せたそうだ。
一人でもいいから対話に行こう。
やると決めないからできないのだ。
これが師匠と共に戦える最後の法戦かもしれない。
法戦(選挙)は「魔」がキツく個人を攻撃してくるから、
組織から離れてはいけない。
彼女は、お子さんを家に一人残し、
出かけたんだそうだ。
こんなことがあったんだよと話した後、
「・・・・・・どう思う?」
と訊ねたその心の内やいかに。
2013年6月10日月曜日
果てしない戯言。
「依法不依人」だっちゅうときに、じゃあ 法に依るべし → 御書に依るべし ってのは十分におかしいと思う。てか、経文に依るってのもおかしいと思う。文字、言葉は人だ。完璧ではない。言葉で語りきれるほど陳腐な法でもなかっぺ。言葉や文字の中から、法を発見しなきゃダメなんざんす。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年6月10日
御書だとか経典だとか、それは言葉であって、
言葉っちゅうのは説明なわけで、それは「人フィルター」を介しているわけで。
言葉で語りきれないその奥にあるのが「法」なわけで、
それは各々が見出す以外にないわけで。
御書にはこうある…とかいう類いの論争みたいなものは、全部、
「人に依る人」によって繰り広げられる、果てしない戯言である。
と、私は思います。
2013年6月9日日曜日
「法に依るべし。人に依るべからず。という仏教本来の立場とはちょうど正反対になってしまった。」
「有限にして特殊なる人間結合組織を絶対視する傾向のひとつのあらわれとして、日本においてはまた宗派的・派閥的傾向が著しい。これが現代日本においてもなお顕著であることは、今日一般に指摘されている」→
— tamaさん (@wps_happytama) 2013年6月9日
→「日本の仏教においては、普遍的な教理よりも、限定された具体的な人間結合組織としての個別的教団そのもののほうが重視された傾向がある」 日本人の思惟方法(中村元)
— tamaさん (@wps_happytama) 2013年6月9日
「信仰よりも人間関係を重視する傾向に促されて、日本の仏教においては多数の宗派が分立し、各宗派は排他的・閉鎖的傾向があった。これは日本人一般のあいだに根強い派閥的傾向にも関連のあるものであろう。」→
— tamaさん (@wps_happytama) 2013年6月9日
→「たとえば、禅宗において多数の分派が存するのは、信仰あるいは教義の相違にもとづくものではなくて、師資相承というような単なる人間関係にもとづくものである。そこでは師弟関係が非常にやかましい。法脈相承をやかましくいいたてるのは、日本の仏教のひとつの特徴である」→
— tamaさん (@wps_happytama) 2013年6月9日
→「今日のように思想伝達の機関が発達して各個人が多数の人から教えを受け思想的影響を被っている時代に、なお弟子に対してただ一人の師匠としての権威を保持することは、派閥的関係を助長する傾向におもむかざるをえない」→
— tamaさん (@wps_happytama) 2013年6月9日
→「法に依るべし。人に依るべからず。という仏教本来の立場とはちょうど正反対になってしまった。」 日本人の思惟方法(中村元)
— tamaさん (@wps_happytama) 2013年6月9日
2013年5月29日水曜日
属人。属事。
(※属人主義的情報処理のもとでは)誰かが自分の意見を支持してくれると、意見の正邪による発言とみなさず、「自分の味方をしてくれた」という対人的債務のようにみなす風土が発生することが少なからずある。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月29日
そうすると、その相手が、今度、間違った意見を言っているときでも、「彼にはこのあいだ自分の意見を支持してもらった借りがある」という理由で、間違ったことがわかっていながら、支持を「返済する」ということが起こる。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月29日
同様に、自分の意見を支持してくれなかった相手に、不支持による報復をするということも起こるわけである。(『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一) sessendo.blogspot.jp/2011/05/blog-p…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月29日
「誰が」言ったか、「誰が」行ったかという視点が属人主義で、話した「内容」、行った「事柄」に注目するのが属事である。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月29日
押し付ける人間は他人の選択を侮辱している。
マルチ商法なんかでもそうだけど、勧誘するのがどうしても苦手とか、人にもモノを薦めるのが性格的に無理な人っていますよね。そういう人が「でもこれをやれば裕福(幸せ)になれる」とか「自分の壁を破ろうよ!」とか言われて、それを実行しちゃったとしたら、その人の心はもう既に壊れてるよね。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
人にモノを薦めるのが苦手ってのは、流されずに選択をしてる自覚がある人なんだと思うよ。その自信があるから、人の選択も尊重できるんじゃん。だから、良いと思ったからって安易に人にも薦めるっちゅうことは違うっていう風に思える。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
あの人たちは、良いことを知っていて人に教えてあげないのは根性悪いとか、無慈悲だとか、好きなこと言うよね。某マルチの人にも散々言われた。だけど「良いと思ってるのは貴方でしょ」っていうそれだけの理由で、終わっちゃう話なんだけどね。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
あそこのコロッケ美味しいよ!なら薦めるけどさ。一瞬の生命に仏界を涌現するには題目を。。。ってのは「貴方が良いと思ってるだけ」っていう域からどうやったって出てこないよね。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
よく言われたよ。押し付けたくないって言うと、本当の良さをまだ理解できてないからだって。良さが分かれば自然に人に薦めたくなるって。でも焦らなくても、体験を積めば話せるようになるよって。。。あ。これはマルチの話な。教団の話にも聞こえるよね。ちゃんちゃら可笑しいぜ。( ̄▽ ̄)
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
■「話しすぎる人間は他人の想像力を侮辱している。」【アパッチ族】
— ネイティブアメリカンの名言さん (@Indianteachings) 2013年5月27日
押し付ける人間は他人の選択を侮辱している。(かっぱ)
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
劇場型宗教
あの教団は時々「劇」って言葉を使うけど、錯覚のなかで生きる幸せというテーマを自ら提示して見せてるんだろうか。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
先の教団もそうだけど、自己啓発、なりたい自分になる、それも一つの「劇」であって、登場人物の「私」は舞台から降りた状態が本物。舞台上の「私」は空想、夢、錯覚、暗示、強迫観念、あるべき論、そういうものに突き動かされる「私の影」でしかない。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
→その影を本当の自分と思い込んで、それを成長と呼ぶ。そういう錯覚が世界に蔓延している。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
だからって、ありのままつって欲望のまま堕落しろって言うんじゃないよ。自分にホントに必要なものが分かってたら、それを得るために払う犠牲があったとしても構わないわけじゃん。天秤にかける覚悟を責任って言う。その天秤のことを価値観っていうんだよね。で、その天秤を自分らしさっていうんだよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月27日
正義の味方の元に平和は訪れないと思う。
人は善であろうとして努力するが、その善の中にその対立物たる悪が存するのだ。断言的なことはすべてその対立物を有しており、何かを克服しようとする努力はそれが求めているものとは逆のものを強くさせてしまうのである。
— Krishnamurtiさん (@krishnamurtibot) 2013年5月23日
そうか。悪を設定しないと正義の味方ではいられないんだな。
戦う戦うばっか言ってる人たちは、周囲に悪を設定して戦うんだな。
だから罵るのが好きなんだ。
そんな人たちが世界平和って無理だな。
彼らが戦う限り悪は存在するし、もし彼らのいう平和が実現したら正義も消える。
そうすると原理主義者が現れるんだ。
2013年5月22日水曜日
「無解有信の人」
今日の小説。『私どもがめざすべきは、有解有信でありますが、有解無信の人よりも、無解有信の人の方が、はるかに尊いことを知ってください。』正々堂々、人の尊さに上下をつける、これを人間主義というのか。そうか。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月22日
誰が書いてんねん。責任者だせ。( ̄(工) ̄)
まったく呆れた暴論だと思う。
んな小説読んで、褒められたと思っていい気になるアホが山のようにいるんだろうか。
「無解有信」て救いようないアホ状態でしょお。
てか、そりゃ危険人物でしょお。
信じる団体または人が、「これをやれば功徳がある」って言えば、なんでもやるんじゃない?
それを「はるかに尊い人」と呼んで、褒め称える。
「考える前にまず動け。」
聖狂新聞はいまや、狂信者製造紙だ。
『口によく出す言葉の逆が心の深層を映す』
口によく出す言葉の逆が心の深層を映す。「しっかり」と言う人はしっかりしていないと自覚。「勝つ」と言う人は負けに耐えられないと危惧。
— 宋 文洲さん (@sohbunshu) 2013年5月21日
「報恩感謝」の逆はなんだろう。
「師弟」の逆はなんだろう。
その逆を罰する心が、恐怖となって己を律する。
私はそれを「強迫」と呼んでいる。
2013年5月20日月曜日
「教師を神格化してはいけない」
かっぱと同じ境地だな。ガハハ。( ̄(工) ̄)…Σ(゚д゚lll)RT @fuitsuono: 「私は何も信じない」クリシュナムルティ/クリシュナムルティの智慧 krishnamurti.g.hatena.ne.jp/sessendo/20111…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月20日
まあ、冗談なんですけども、
要するに、教師を神格化する = 信仰する人々が、
結果的に教師の思想を貶め、ゆがめていく、
その無自覚なままの精神の服従について、
クリシュナムルティという人は語ったんだっちゅうお話。
思想をみよ。人をみるな。
というのは、
いわゆる「依法不依人」と同じ思想。
誰かも同じこと言ってたね。罪を憎んで人を憎まず・・・のように、思想を崇めて人を崇めず。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月20日
「罵ってよし」認定。
その座談会の記事。
・ニュース 公明党委員長使い捨て
心が荒むから、まじめに読まないほうがよいけども、
これを読んだあと、
ソウカ学会は人間主義の平和を実現する団体だなんて、
どの口が言うだろうか。
どうやら会員に「コイツは罵ってよし」認定を喰らうと地獄に落ちるらしい。
触らぬソウカに祟りなし。くわばらじゃ。
「信仰」の正体。
昨日の訪問者が言っていた。内部の人にもう一部新聞を頼むのがなんで広布なの?って聞いた時、「先生がそうしなさいとおっしゃる事に意味がないはずがないから。」それはつまり信仰だ。思想に感銘を受けて慕うのとは意味が違う。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月19日
当たり前のことなんだけど、ソウカの活動家は、
新聞の営業マンでもなく選挙屋でもなく、信仰をしている。
信仰とはつまり、教義を信じ、理屈抜きで拠り所とすること。
それは「この人(教団)しか信じない」という宣言で、
部外者を侮(あなど)り、分断し、
教団内の思考回路に自分を押し込めていくってことかも。
私は「無信仰」でいたい。
すべてのものに学ぶ。
たとえ池田某氏であろうと、
「邪教」のお坊さんであろうと、
「外道」の説教であろうと、
ほぉ!と思えば耳を傾けるさ。
それが無信仰だ。
「嘲笑」
批判したあとの(^^)とかwとかってのはやっぱ、嘲笑の表現なわけかね。嫌いだな。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月17日
「嘲笑」ってのはさ、1000歩譲っても人間的にどうかと思うんだよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月17日
@shirayuri_kun 嘲笑の最終形→ sessendo.blogspot.jp/2011/10/blog-p…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月17日
正義の暴力。
元ソウカの人の中には、ソウカの何が暴力だったのかをわかってない人がいて、脱会しようと非活なろうと変わらず暴力的行為を続ける人がいるので、注意が必要だと思うっす。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月16日
「こうあるべき、でなければならない・・・・」
って、あなたが思ってるだけでしょ?っていう話が通用しない人とは、
あんまりお話をする必要はないと思うのです。
はい。
「自分を生きる」なんて話。
人が何かに気付くとしたら、それはもう縁以外にないわけで、もし縁があっても、知識や信念が色眼鏡に働いて、うまく見えない時もあるし、豊かに生きるには身軽でしなやかであることが必要。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月16日
どれだけ気づけるか、それで豊かさは決まる。
だから、決め付けたり、分かったつもりで目をそらしたりせずに、
何に対してもニュートラルに見る。
そのときの、その場の、自分の感受性以外に、何も持たない。
そんな風に「自分を生きる」のが勇気だと思うし、
それが「己心の仏性を輝かせる」生き方と思うっす。
マニュアル抱えて生きるのは、
ある意味、楽がしたいっちゅうズルさだと思うな。
失敗したくないだけなんでしょうけども、
残念ながら、どんだけ避けても失敗も間違いもあるから。
腹くくって生きたほうがいいぜよ。
「気づいた人」は誰もが師匠だと思う
何度も見たし、もう飽きたんだけど、共通してるのは、知識重視で「あなたは知らない。」という前提で自分または教団を持ち上げようとする手法。その思い上がり。で、それは宗教心とはまったく無縁だっていう話。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月16日
知っていることと知らないことの間に、何の溝があろうか。
知識は開かれている。そこに特定の師匠など必要はない。
気づくか気づかないか、そこにこそ偉大さがあるんだ。
「気づいた人」は誰でも師匠。
特定の分野でもいい。
気づいた人はその分野の仏法を観たんだ。
コピーはオリジナルに勝てない。
そのオリジナルの秘密に気づくこと。
それが仏教の道だと私は思う。
2013年5月15日水曜日
ノウハウと祈り。
ノウハウやプロセス、実践方法を語る人は、すでに完結した過去をこれからも通用するものだと思い込んでるけど、偶然の波を前にどうすることもできず、言い訳しながら退散すると思う。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月14日
正解があったとしてもそれはもう過去のモノ。これからのことには正解などない。だからこそ面白いっていうダイナミックな現実を楽しめないなら、あとはただ祈るしかないんだろうねと思うよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月14日
あとはただ祈るのみ…マニュアル本を片手に。
仏教って。
仏教って、やっぱ、ブッダが見つけた言葉では語り切れない真理を探求することなんだと思う。ブッダは目覚めた人って意味で。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月14日
「ブッダが見つけた言葉では語り切れない真理」とかいってもさあ、ブッダってのは特定の人のことじゃないし、目指すべきモノとかじゃないし、中心にあるのは「今、ある」ってことなんだと思うんよ。実践も師弟もクソもない、観る目と聴く耳と受け取る心の、ほんの一瞬の話でしかないと思う。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月14日
「楽をして勝てるわけがない」
池田botが「楽をして勝てるわけがない」なんて言ってたけど、楽をしなかったから勝てると決まってるわけでもないし、何をもって勝ちとするのかが分からないし、いかに楽をしてやり過ごすかがテーマな場合、楽をすれば勝ちなわけで、この言葉の本質は何かといえば「文句言わずにまず動け」なわけで。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月12日
「楽をして勝てるわけがない」っていうのは、まあ普通にあの手この手で工夫して全力で挑戦しようぜって意味に捉えれば別にいいんだけど、これがまた「冬は必ず…」と同じで、こんだけ苦労してる私にいつかきっと勝利はくるとのお約束…みたいな受け止め方する人が喜ぶんだろうなって思って。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月12日
楽をして勝てるわけがない →苦労しなければ勝てるわけがない に変換すると、苦労の肯定。苦労せよ。たとえ目的を見失っても苦労は正しい。友の為に尽くす自己犠牲が正しい。ってなトンデモ婦人部が生まれる。→ 手抜きじゃ勝てないよに変換するといいと思う。ま、勝たなくてもいいけど。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月12日
真理へのとびら
宗教の種類など関係ないんだ。どの扉から入るか。その違いしかない。なのに、うちの扉こそが正しい!いやうちの扉だ!とか言い争って、バカみたいだ。昔はまだちゃんとした扉だったのに、今は特設会場への入り口に変わっちゃってたりする扉もある。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月11日
昔はちゃんとした扉だったってのは、私がいうのは鎌倉時代のことだ。
昭和の人のことじゃない。
支配されたがる人。
そうだ、暴力も迷信もオカルトも、そうだと気づかない人が支配される。周りがそれは暴力だよって言っても、支配を受けてる安心感に包まれて出てこない。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月9日
それで地の果てにでも居てくれるならいいけれど、我こそ王道、我こそ正義と周りを巻き込む。巻き込まないから世の中が良くならないんだ!くらいの強迫観念と共に。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月9日
支配されることと引き換えに、
あの人たちは確実に安心感を手に入れている。
「学会は信心の安全地帯」なんていう不思議なフレーズを聞いたことがあるけど、
学会にいれば安心って信じたその時点で、内容はどっかへすっ飛んでるんだから、
いくらおかしさを説明したって無駄なんだ。
それよりも、支配を受けている自覚、
暴力を受けている自覚、
自由でいることには勇気がいるってことを、
気づかせるような波風が必要。
「私はまさに自ら私の事柄なのであり、故に、私は善でもなく悪でもないのだ」
私の事柄は少なくとも「善なる事柄」であらねばならぬ、と諸子はいうのか。では、何が善であり、何が悪であるのか。私はまさに自ら私の事柄なのであり、故に、私は善でもなく悪でもないのだ。そのいずれもが、私には何の意味も持たない。
— マックス・シュティルナーさん (@Max_Stirner_jp) 2013年5月7日
煩悩を強める「祈り」
「偶有性を味わう覚悟」
『偶有性に対する強健な態度とは、すなわち「覚悟」のことである。どんな人生を歩んだとしても、その「偶有性」を引き受け、味わう覚悟さえあれば、生きるということを裏切ることにはならないはずだ。』生命と偶有性 (茂木健一郎)
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月4日
2013年5月4日土曜日
「心の問題は単に体を動かさないことから来る」
心の問題は単に体を動かさないことから来る 食物を得るために、天候に振り回され、常に気を使って体を動かし続けるお百姓さんが唯一の救いかもしれない
— すっとこどっこいさん (@tedtakakura) 2013年5月2日
これホントだよね。うん。
何時間もマントラあげる暇があったら、
ゆったりお散歩でもするほうがよっぽど良いと思う。
カテゴライズしない。名付けない。
自分が、なんかドデカイ括りの中の「一部分」っていうことをなぜ受け入れる必要がある? 日本人だから。国民だから。県民だから。会員だから。学生だから。社会人だから。若者だから。青年だから。年寄りだから。弟子だから。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月1日
→そんな括りの一体なにが私のことを決めるんだ?だからなに。なんでもないじゃん、ソレって。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月1日
「日本人だから、こう。」じゃなくて、「こう。だから日本人。」なだけ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月1日
出来るだけ心がけていることがある。
「用語を使わない」こと。
何かと難し気な言葉で、華麗な説明をする人がいるけども、
つい言葉遊びになって堂々巡りの自己満足になってたりするのを見かける。
だから、用語を使わない。
発想を言葉の枠に当てはめない。
カテゴライズしない。
名付けない。
自分もそう。
自ら枠にハマりに行かない。
毎日死ぬ。
毎日死ぬ。そんな生き方をする。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月30日
睡眠ってのは、ひとつの死だと思う。
その後、起きるか、起きないかの違いだけかもしれない。
拘らない、拘らないことにも拘らない、
信念を決めつけない、背負わない、
毎晩リセットするような、
毎朝生まれるような、
そんな感じで。
2013年4月30日火曜日
「傷つき続ける魂」
人間は、自分が、生き延びるためならどんなこともいとわない どんな状況でも適応していく 勝ち残り生き残ることで魂は、傷つき続けているのかもしれない
— すっとこどっこいさん (@tedtakakura) 2013年4月29日
この自覚があるってのは素敵だな。
生きてる間に、捨てて行くモノがある。
捨てながら生きている。
今捨てた何かを、自覚できる能力が欲しい。
2013年4月28日日曜日
広宣流布 改め 広宣
ホンマに思想を広めるつもりなら、いろんな問題を背負った団体とは離れて行動するほうが、軽々と偏見を越えていけるから楽チンだし世のためだと思うよ。そんな気がないから団体にいるんでしょーよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月27日
@shirayuri_kun 「思想を広める」という発想自体が植民地主義的だ。だから本来なら「思想の紹介」程度でいいはずだ。また思想の目的が生きることにあるゆえ、どこに所属しようがしまいが関係ない。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年4月27日
広く宣べるだけでいいのだ。…というかそれしか出来ない。
流布に加担する必要はない。…というかすべきでない。
頑張る頑張る言うてる人
頑張る頑張る言うてる人も、欲張りでわがままなだけって話もある。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月26日
ホントに頑張ろうと思って頑張ってる時は辛くないじゃん。辛いってのはどっかに依存があんだよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月26日
あ。頑張るって、我を張るってことか。RT @fuitsuono: 「我ん張る」でどうだ?
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月26日
苦しい辛い言うてる人
苦しい辛い言うてる人が、同情すべき人じゃなくて、強欲の塊だって話もある。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月26日
維持したい、継続したい、頑張りと引き換えに報われたい、そんな欲の塊。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月26日
「依法不依人」とは
「法を根本に生きる師」の判定基準は「法」なんだから、どっちにしろ法に依るんだよね。。。。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月24日
「法を根本に生きる師」だからって信じちゃいけないね。法は変わらないけど人は変わるから。そう考えれば、師弟ってのは師匠への批判精神と共にあるのが健全。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月24日
そう考えれば、師弟不二の本質は、法 対 個人であって、師匠の存在というのは参考程度であるのが健全。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月24日
なんとかして師匠の威厳を保とうと、辻褄合わせに念入りな人たちがいる。
しかし、「依法不依人」とは、我こそ師匠と自称する輩に惑わされるなということ。
ひたすら法を拠り所にし、人の解釈に依るなということ。
「自分に勝つ」とは
よく「自分に勝つ」って言い方をするけども、それが良いことのように当たり前に言うけども、卑屈とか怠惰とかに勝つってのは押し殺しただけだよな。変身した気になっても、背中のチャックが空いてる感じだよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月23日
そっか。自分に勝つってのあ、こんな自分は認めないってことだわな。偉い先生がよく言ってる自己欺瞞ってヤツのスタートラインだな。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月23日
体験こそ世迷言である
体験は常に過去。常に条件は変わるのだから再現性など誰に証明できようか。体験こそ確信だ?違う。体験こそが世迷言だ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月23日
風邪をひいた → (祈った) →治った → 功徳だ♪
風邪をひいた → (病院へ行った) →治った → 道理。
「イキイキと体験を語れ」などというけれど、
前者のような認知の歪みを露呈して回る時、
それこそが世迷い言であって、仏法を汚す行為であると思うんだよ。
形式は足枷。
まず先に真理があって、それを広く共有、教育するために形式がある。形式を重視し、そればかりに拘るようになると、その形式が真理に到達する条件であるかのように考えはじめる。形式のない時代に「ひとっ飛びに真理を発見した先哲がいた、しかも同じ人間だ」ということは忘れて。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月20日
形式は足枷だ。
飛べるものに対し、地を歩いてたどり着けと命令する。
それが唯一の道であるかのように教育する。
2013年4月19日金曜日
本当の仏法
自分を実現したいという欲望があるときにだけ、死への恐怖があるのです。なぜなら、自分を実現するには時間が、長寿が、継続がなければならないからです。しかし、もし瞬間ごとに自分を実現することができるなら、あなたは死を恐れないのです。(クリシュナムルティ)
— あたしの名言BOTさん (@atashinomeigen) 2013年4月16日
その通り。本当にその通り。願いを叶えたい欲まみれの自称仏法者よ。これが本当の仏法だ。>前RT
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月19日
師を疑うということ
疑えない前提の聖域を持つから自己矛盾をかかえるんだ。前提を疑う勇気を持っちまえ。( ̄(工) ̄)
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月19日
師を疑うって話をすると、一気に敵視と思う人がいるよね。そこがもう、その白か黒しかないっちゅう発想がもう、最悪…。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月19日
師匠など至る所にいるじゃないか。。。正しい師匠?それはあなたが言っても説得力がない。だってあなたはすでに師匠を見誤ってるんだもの。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月19日
「依法不依人」とは
文底ってのは本質を読み解いたってことでしょ。「文献から本質を読み解け。人の解説に振り回されるな。」ってことだよ。不依人 = 師匠と名乗るものに惑わされるな。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月18日
勝手な読み方は許さないってんなら、文底を読んだ日蓮も許されんね。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月18日
そこでさ、師匠に惑わされるなつっても、文献を読み解く学のない鎌倉時代の人のために、思いやりに満ちた解釈を提示したのが日蓮なんじゃね。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月18日
「冬は必ず春となる」けどまた冬になる
「冬は必ず春となる」というが、四季に例えるならば逆も当然ある。「夏は必ず秋、そして冬になる」ということ。創価では宿命転換というが、そんなモノはなく、人生は恒に変化の連続で喜怒哀楽悲喜こもごもなモノだと理解したほうが良い。巧く行く時もあればあがいても行かない時もあるのだ。
— 運ちゃんさん (@sougaku_salon) 2013年4月17日
冬は必ず…なんて「良いこともあれば悪いこともある」程度の話。それに対して「そこから先はずっと春」ってのが宿命転換、人間革命って思ってるような節があって、そういうとこが悪いけど脳内ホワイトアウトなドリーマーだっちゅう話。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月17日
「ここから先はずっと春」に対する反論ももちろん知ってるよ。ソウカはそんなこと言ってないよね。でもさ、じゃあいつ春がくるわけ?今でしょ。耐え抜いた先に春がくるんじゃない。煩悩即菩提とか因果具時って常に今で完結でしょ。人間革命の先に春があるんじゃない。過程を春と謳歌すべきなんだよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月17日
なのにさ、とてもそうとは受け取れない「名言」「励まし」の数々……「励まし」ってそもそも違うじゃん。励まさねばならない対象は、謳歌してない人だろよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月17日
謳歌してない人は、宿命転換や人間革命の過程にいない人ってことじゃん。仏法かけ離れて破綻してるよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月17日
過程を謳歌するってのは、辛いことや苦しいことを押し殺して笑うって意味じゃないよ。それでも頑張ろうってのが安っぽい「励まし」だけども。辛いなら辛い、それを辛さって考えずに、名前のないままの感情を見つめて味合うんだよ。そうすると驚くほど観念に縛られてるのが見えて、自由になれるんだ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月17日
「論理の欠点は飛躍が無いことです」
「あなたはどうして論理的に語ることができないんですか?」「翼を持っているのにどうしてわざわざ歩く必要がある?」
— 小田嶋隆さん (@tako_ashi) 2013年4月16日
論理の欠点は飛躍が無いことです。
— 小田嶋隆さん (@tako_ashi) 2013年4月16日
まあ、アタマの悪いヤツはせいぜい論理でも積み上げてろってこった。
— 小田嶋隆さん (@tako_ashi) 2013年4月16日
発見は飛躍だが、論理は飛躍しない。
形式は未熟な者のためにある
いっつも思うけどさ、中身の話が出来ない人のために、枠組みや形式があるんだよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月16日
てことは、形式に囚われてそれを重んじないと罰があたるとか言ってる人は、中身はよく分からんけど従ってますがなにか?って言ってんのと同じ。で、そういう人に広められるのは強迫だけ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月16日
未熟な者の為に形式やマニュアルがある。それがノウハウとなって教育・指導が商売として成り立つ。しかしそのノウハウが常識ほど広まると、誰も指導を乞わなくなって商売システムが崩れる。そしたら超能力とかオカルトの出番がくる。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月16日
「祈り」と「呪い」
示+兄=祝(「示」は、祭卓の形。「兄」は祝詞を入れる器の形)。「祝」は、祭卓の前で神を祭ることを示す。「祝」から「祈」と「呪」とに分化した。(白川静『常用字解』から)
— ana_gonさん (@sinkousya) 2013年4月15日
「祈り」と「呪い」は、ルーツを同じくする行い。それを肝に銘じておく必要がある。
— ana_gonさん (@sinkousya) 2013年4月15日
「これが幸せ」という観念
「出世物語」「成功物語」を歩んでいる人は「不幸物語」「負け犬物語」が怖い、避けようとする 人生はいくつかの物語の組み合わせ 一生幸福、不幸と言う人はいない どん底でも幸福かもしれないと気付けば「幸福物語」が始まる成功に執着している人は心の中は「どん底物語」なのかもしれない
— すっとこどっこいさん (@tedtakakura) 2013年4月14日
これが成功、これが幸せという観念が、人を不幸にし成功から遠ざける。とてもシンプルなこと。観念から自由になるだけ、その一瞬で幸せになれる。仏教で執着を捨てよっとか言うのはそういうことだ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月15日
2013年4月14日日曜日
狂信者の脆さ
RT @sandai_hiho 日蓮を伐る!功徳がある筈がない!理不尽がまかり通る!森羅万象皆南無妙法蓮華経なら、理不尽を行っているのは大御本尊だ!矛盾しているよ♪一部の自分の意にかなった人に功徳を与える。う~む!そこらの悪徳社長・上司より悪どいってのが大御本尊だ!騙されるな♪
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月13日
RT @sandai_hiho: 題目500万遍、御書11回、法華経21回、六巻抄11回。無視です!な~にも有りません。この五年間、無駄!退して20年で再起したが、バカみたい!朝早くに全力で起き、題目頑張ってバカみたい!今再び、信心ストラップだ!二乗は二乗なりに行くんだ!
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月13日
RT @sandai_hiho: 地震、流れ星、天候不順。??学会幹部達、どこかで聞いてるだろう?つい最近の地震で死んだ人々、あれと同じ事起きる?何か変だそ?何をどうすればいいかな?原田君!民衆が又、死ぬよ♪
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月13日
なぜ「♪」?、信心ストラップって何じゃらほい、
そこら辺はまあ置いといて…………
これらのツイートは6時間ほどで削除された。
以前にも同じことがあったので、また削除するだろうと思って、
覚え書きに引用リツイートさせてもらったもの。
単にサンプルであって、他意はない。
sandai_hiho氏は、最近多忙で体調がすぐれないらしく、
精神的にも不安定なのだろう。
ご自愛くださいとお伝えしたいところだが、
もうすでにいつもの狂信モードに戻っておられるので
心配ないと思われまする。
しかしまあ、狂ってるな…と思う。
すぐ削除したけども、口が滑ったってレベルじゃない。
かなりの思い込みと思い違いを暴露しつつ、
それでも、これほどの疑念を押し殺させるための「脅し」もしっかり効いているわけで。
マゾ的仏道修行に励む狂信者は案外脆いのね。
本質的な理解は抜きにして、
この模倣(修行)に対して、この見返り(功徳)があるという方程式を信じていて、
「これだけやってるんだから功徳があってもよいはず」って気持ちだから、
うまく行かないじゃん…となると突然プツンと糸が切れる。
師弟という模倣、指導という教育が、
悲劇の狂信者を生み出すんだ。
これが模倣の限界だと思う。
こんな人たちを生み出しながら、
大勝利だのよく言うよ。
ほっときゃ良いんだが、
この方とかもそうだけど、
こういう雰囲気の人ほど他人への説教に熱心で、批判に過剰反応されるから、
なんだか迷惑な場面が多くてね。。。
「なぜこんなものを信じてしまったのか」という謎解き
『わたしども脱会者にとって、「なんで、こんなものを信じてしまったのか」という謎解きは、将来の“杖”として必要であり、その検証は、国民にとって転ばぬ先の杖の提供となると、わたしは考えて書いている。』(犀の角のように独り歩め) bit.ly/10O4l9m
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月9日
「権威や順応や模倣を完全に無視しなければなりません」
ですから、権威や順応や模倣を完全に無視しなければなりません。でなければ、あなたはただ模倣をし、人の言葉に従うだけであり、それが心を鈍く愚かにしてしまいます。そこに自由はありません。(クリシュナムルティ)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年4月8日
「いつやるか?無理でしょ!」
こわっ∑(゚Д゚) RT @ruri_doll_sea: 「いつやるか?今でしょ!」顕正会でも使ってそう(^∇^;)ただ彼らの場合、ジョークで済まないのがおそろしい。「いつ入信するか?今でしょ!」
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月8日
超こわっ(T ^ T)RT @ruri_doll_sea: @shirayuri_kunあるいは「いつ投票するか?今でしょ!」かな(o・ω・o)?
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月8日
凄すぎっ( ̄(工) ̄) RT @ruri_doll_sea: 「大聖人に背く日本はいつ滅ぶか?今でしょ!」浅井さんも、次はシャレのきいた諌暁書でも出したらウケるわいΣ( ̄□ ̄;)なワケないか…
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月8日
「一千万人いつやるか?今年でしょ!」って浅井さん、大声で言ってたはずなんだけどなぁ。しつこいようだけど。( ̄(oo) ̄*) ブーブー!!
— 瑠璃堂みうさん (@ruri_doll_sea) 2013年4月8日
「六千万人いつやるか?無理でしょ!」だんだん大喜利みたいなってきた…d(>◇< ) アウトッ!
— 瑠璃堂みうさん (@ruri_doll_sea) 2013年4月8日
ヒップホップで学ぶ日蓮 「完全教祖マニュアル」
リアルっていえばこれかもね。/ヒップホップで学ぶ日蓮 「完全教祖マニュアル」bit.ly/17keA94
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月7日
2013年4月7日日曜日
「信念をもっている限り体験は無意味」である
あなたは体験によって、自分の信じているものが真理であるという核心を得ようとしますが、信じること自体があなたの体験を条件づけてしまいます。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年4月6日
信じているものの証明として体験が起こるのではなく、その信念が体系をつくり出してしまうのです。あなたの神への信仰が、あなたが「神」と呼ぶものの体験をもたらすのです。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年4月6日
あなたはつねに、自分の信じるものしか体験できません。信念をもっているかぎり、あなたの体験は無意味なのです。(『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ) d.hatena.ne.jp/sessendo/20110…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年4月6日
体験は真実か?/『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ - 古本屋の覚え書き (id:sessendo / @fuitsuono) d.hatena.ne.jp/sessendo/20110… 同意するところ多し。
— 中野毅さん (@ts_nakano) 2013年4月6日
2013年4月5日金曜日
私の嫌いなソウカの正義。
例えば道で何か困ってる人が居た。御構い無しに通り過ぎる人達にも、何か急ぎの事情でもあるのだろう。手伝える私が手伝ってあげればいいことだ。それを、通り過ぎる人達を「それでも人間か!愚か者め。」と罵りながら助けてあげつつ名刺を渡す。それが私の嫌いなソウカの正義です。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月5日
例えばの話だよ。
困っている人を見て、見ぬフリはできん!と手を差し伸べる気持ちは大事やね。
でもさ、
よし…仲良くなって折伏しよう!とか、
今度の選挙頼めるかも…とか、
新聞頼めないかなあ…とか、
それってもう、善意の仮面をかぶった◯◯じゃんね。
(◯◯部分はご自由にご想像ください。)
「つまり折伏とは宗派的な排他性への批判だった」
日蓮の思想には多くの誤解がつきまとっていた。その最たるものに「折伏」が排他的だという評価がある。日蓮は確かに浄土宗の法然や真言宗の空海の説を激しく批判した。だが内実は彼らが念仏や真言系以外の仏典を排斥することへの反対に他ならなかった。つまり折伏とは宗派的な排他性への批判だった。→
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月4日
→日蓮も「法華経」以外の教えを排斥したではないか。そういう意見も、むろんある。ただ、彼自身は「法華経」が一切の平等を完全に解明した仏典であると信じていた。だからこそ、「法華経」を尊重する以外に一切の思想・宗教を平等に尊重する道はない、と考えたわけである。「日蓮のことば」松岡幹夫
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年4月4日
皮肉な話だ。
宗祖の後継を自負する団体が、宗祖の願った知恵と平等を誹り、他宗の排他を叫ぶ。
2013年4月3日水曜日
「君の心は人類です。」
映画館に行くとき、君は映画に出演はしていません。
男優と女優が出演していて、君はただ眺めているだけです。
同じように、心の働くようすを眺めなさい。
それは本当に興味深くて、どんな映画よりもはるかに興味深いのです。
なぜなら、心は世界全体の残滓であり、人間の経験してきたすべてを保持しているからです。
理解できますか。君の心は人類です。
そして、このことを知覚するとき、君は無量の慈悲を持つでしょう。
この理解から大いなる愛が出てきます。
そのとき、美しいものを見るとき、君は美しさとは何かを知るでしょう。
これは形は違えど仏法だ。
平河出版社
売り上げランキング: 155,632
「師弟絶対」
「師弟不二」を持ち出す連中のほとんどが、師弟絶対、師弟相対を唱えていることに気づいていない。百歩譲って師弟不二を容認するにしても、それは依正不二の範疇から離れることなどありえない。むしろ、日本武道の極意とされる「守・破・離」のほうがはるかに仏法的といえる。
— ana_gonさん (@sinkousya) 2013年4月2日
守破離(しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つ。日本において左記の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。
まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。 引用:wikipedia
2013年3月31日日曜日
「永遠の指導者」
「永遠の指導者」を定めるというのは「一君万民」思想そのもの。少なくとも仏教とはまったく相容れない。このままなら、愚かな万民と利用主義者とに二分された集団が、細々とした盛衰を繰り返すだけに終わるだろう。
— ana_gonさん (@sinkousya) 2013年3月31日
正義。
私が嫌いなのは「正義感」なんだね。押し付けてなんかないというけど、正義は必ず人を裁く。ヒーローは邪悪を倒す。水戸黄門にはひれ伏す。押し付け以上の暴力行為がまかり通る。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月30日
水戸黄門に出会えた人なんて一握りで、大半が悪代官に搾取され続けるのが現実。それでも「印籠が目に入らぬか」ってやれるその根性と、それにひれ伏す人の根性と。。。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月30日
水戸黄門とひれ伏す人たち。
何かに似ている。
前向きな人。
私は前向きな人が嫌いだ。てか、敢えて前向きになろうという人が嫌いだ。元々人は前しか向いていない。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月30日
それと同じで、「最も尊い皆様」とか平気で言うヤツと、それに喜ぶヤツが嫌いだ。お前に言われなくても誰でも尊い。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月30日
前向きだの尊さだの、当たり前のことをわざわざ言いたがるヤツは、逆さまの心の持ち主だ。下を向いて私なんかダメだと思ってるから、前を向き尊い皆様の列に並びたがる。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月30日
妙に暗示的な言葉遣いで、前向きなことを呟く人が嫌いだ。
人に「気づきを与えたい」みたいな遠回しで屈折した正義の押し付け。
そして自らの言葉に雁字搦めになる。
2013年3月28日木曜日
すべてに反逆するということ。
我々は家畜化を選んで生き延び子孫を繋いだ人々の末裔なのだな。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月28日
だから家畜化を選ぶよう遺伝子にインプットされている。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月28日
それに逆らおうってんだから、そりゃ私はマトモじゃない。少数民族なのだろう。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月28日
逆らうと言ったところで、私が居るのは中間点だ。家畜でもないが、世捨て人でもない。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月28日
すべてに反逆するとは真ん中に居るってことだな。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月28日
「不安ゆえに自由になどなりたくない」のだ。
彼らは不安ゆえに自由になどなりたくないのだ。宗教だけの話じゃなく、あらゆる場面で、保証と制約のある道しか歩まない。彼らと同じメンタルのまま、制約に文句を言ってる人が多いのだけど、それは引き換えにしているという自覚がたりないだけの無い物ねだりだ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月28日
そういう人に対して彼らが説教したがる気持ちは分かる。しかし、その保証が要らないんだと言っている私のスピードに彼らはついて来れない。そのことにも気づかない。前を歩いてるつもりでモノを言いたがる。路線そのものが違う。@shirayuri_kun
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月28日
結局のところ、彼らの主張は、
「こうすれば、成仏できる。幸せになれる。」っていう話なわけだ。
当然、裏返せば、
「こうしなければ、成仏はない。幸せになれない。」って話だ。
で、私は、「彼らの言う成仏や幸せは、本当の成仏や幸せではない」っと言っている。
「それは結構です、私には必要ありません」と言っているんだ。
信心で幸せになりたいと言いつつ、
その条件は飲めませんねぇ・・・というのは我侭だっちゅう話。
あ。だからって学会の現状肯定じゃあない。
いまやその「条件」がおかしすぎっちゅうのは、確かなんだけどね。
私は、学会について、単に不満を述べているのではなく、
根本から否定してるっちゅう話。
だからもう、「愚痴はいけませんよ」ってな説教はやめておくれ。
自ら望んで家畜となり、安心を買う人達に、自由になれっちゅうのは酷な話だ。しかし彼らは、家畜化されてない人を見て心配し、家畜がいかに安心かを説き、拒否した人々の生きる様を見て嘲笑う。何がそうさせてしまったのだろう。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月28日
2013年3月27日水曜日
発見と発明。
仏法は発見。宗教は発明。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月27日
ちょいちょいツイッターをしていると、
こんなフニャっとした思いつきも残っていく。
これって結構なひらめきやな。
発明は、発明した人や団体が独占して商売しようとしたりするけども、
発見されたものは、みんなのもの。所有権を主張するヤツは嘘つきだ。
発見されたものは、誰がいつ見ようと自由だし、自由な解釈ができるけど、
発明品には、発明者の意図と注意書きがビッシリ書き込んである。
発明品の宗教は真理じゃないってことじゃないのかなあ。
だって普遍じゃないってことだもん。
一念三千は発見だけど、師弟不二は発明品だ。
因果具時は発見だけど、御本尊は発明品だ。
2013年3月25日月曜日
「新聞啓蒙」に思う。
隣の隣の地区の話。80部を地区幹部で頭割りと言っていたのに、突然もう啓蒙をしなくて良くなったと不可解な終わり方をした。不審に思った人がたずねたら、あるご婦人が一人で80部の購読を申し込んだという。財務と同じと思えばできる事だと言ったそうだ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月25日
それをまた、本部のおばさん達が、そのご婦人を見習えと地区幹部達に説教した。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月25日
その話を聞いていて、私ももう、分かり切った感想などを大声で叫ばないようにしようと思ったんだ。ただ、情報の共有は必要。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月25日
いやーだから、支部の上の本部の人が、それは良いことだと、見習えと言ってるんですよね。で、本部の人が言うには、圏の婦人部長が「不足分は頭割りしてでも勝利を持って来い」という方針だと申しておりまして、そこら辺りには副会長さんとかも居るわけで…。@s49march
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月25日
ちなみに、一番身近なその副会長さんは、以前ウチの地区の座談会で、命を投げ出して師匠をお守りするところにしか功徳はないって演説をぶった人だ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月25日
副会長クラスが突然そんな、命を投げ出せってな師匠原理主義みたいなことを一人で言い始める…、その人が異常なんですよと、そう思うなら思ったらいいと思う。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月25日
そうさ、先の「命を投げ出せ」演説を地区の活動家達は大きくうなづきながら涙を流して聞いてたんだぜ。え?どこがおかしいの?って人すら大勢いるさ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月25日
このご婦人は「財務」を引き合いに出し、
頭割を強制されかけて困っていた地区の人を助けるために一人立ち上がり、
広布のお役に立てたと満足気らしい。
地区幹部たちの中の一人は新聞配達員で、
「80部の新聞はポストに入らないと思うんですけど……」と
そこかよ…ってな不思議なツッコミをいれていた。
実際、こういう場面に遭遇すると感覚が麻痺してしまうけれど、
学会内の問題は、すでに信心云々の話で済まされないという一つの例ではあると思う。
・新聞啓蒙、対世帯数200%推進月間について
「文底読み」
文底読みってすごく腑に落ちない感があってさ。これ言うとすんごい怒られると思って言わなかったけど、結局、この経文に書いてるのは、ホレ、俺のことじゃん…という話なんだよねぇ。まるごと錯覚とか偶然の一致の可能性とか…まーこれは怒られるだろうなあ。(;^_^A でもまあソコなんだけど。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月24日
入会したばっかの頃、御書学で、文底読みって理解しにくいんだけどなに?と質問したことがある。そしたらさ、そんなこと気にしていると、頭デッカチで動きの出来ない口先人間になる、自然に分かるようになることだから今は気にするなってなことを言われたね。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月24日
家庭訪問にくる幹部さんとかも、対話が大事だから疑問はなんでもぶつけてとか言うけど、文底読みって屁理屈ちゃいまっかっていう路線で来られたらどうするんだろうな。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月24日
2013年3月23日土曜日
かっぱの目的
私はね、活動に功徳があると信じて、やらねばならない!と強迫的に走ってる人を立ち止まらせたいだけなんだよ。学会の本来の目的が世界平和だかなんだか知らないけど、納得もいかないまま程遠い活動にせっせと精を出して、強迫観念に立ち止まることもできず苦しんでる人を助けたいんだよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月23日
学会の中に今でも美しい理想があると信じてるなら、勝手にやってればいいじゃん。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月23日
で、意見の違う人にとやかく言うことないじゃん。距離を取ればいい。私は目の前の人と、関心を持って耳を傾けてくれる人に語りかけてるだけさ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月23日
私のような人間が声をあげ続ければ、結果的に学会組織は今よりもっと衰退するかも知れない。で、組織が衰退したら何が困る?組織があろうとなかろうと、理想を語る口を持った人はいるじゃないか。看板はなくとも一人間として語ればいいじゃん。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月23日
それが「一人立つ」ってことでしょ。組織がどうのこうの言うのは結局、数でモノを言う暴力なんだよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月23日
間違えてもらっちゃ困るのは、私のような人間が言った言葉に反応して立ち止まるのは、学会の中に真の理想が見えなかった人達だよ。そういう人は、元々広布の戦力ではないし、その意味で私の行動は学会組織を衰退させたりはしないね。相応の姿に戻すだけさ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月23日
学会の中の真の理想。。。と書いたけれどね、
例えばそれが「全人類の幸福実現」で、そのために「万人に具わる仏界の生命を湧現しよう」と広める(=広宣流布)のだとして、
そこまでは異論はないよ、もちろん。
そう思ったから入会したんだから。
だけどね、このご本尊でなければだめ、学会でなければだめ、この先生でなければだめ、
そんな「幸福実現の特許を持ってるのは学会です」みたいな話ばっかされて、
それを広めるための活動がすべて正義とされるわけだけど、
でも、学会は正しいみたいな根拠はどっこにもないんだよね、上手く煙に巻いてあって。
それらしき話は聞くけど、ファンタジーだし、
希望と方法をセットに提示されると、暗示的に脅しになってしまって、
よくわかんないけど言われたとおりに戦おうって、
盲目で猪突猛進な人ばっかりになちゃうのさ。
そんな人がいくら仲間を増やしても広宣流布とは程遠いよ。
わけわかってないスタイルだけのコピーなんだから。
仏界の湧現?それは瞬間の気づきのことだよ。
誰だっていつだって無条件にできるのさ。
(こういうと宗教ビジネスが成立しない。だから本来の法華経は迫害されるんだよ。)
そこへ条件をつける奴らは誰一人信用しちゃいけないんだ。
私はそのことを身近な人と、耳を傾けてくれる人に広めたいんだ。
======
ちなみに、それでも正しさを主張するために、
識者、学者、有名人の皆様のご意見などを活用して、
「あの人も言ってる、この人も言ってる、だから我らは正しい」って、
毎日確認のために大声で叫び続けるのがあの新聞だね。
新聞啓蒙、対世帯数200%推進月間について
新聞啓蒙が地区目標まであと40部近く足りないんだそうだ。最後まで頑張ってできないものは仕方が無い…と昨日の協議会で話してたらしいんだけど、それじゃダメだっつうことで、協議会メンバーで頭割にしなさいってことになったんて。泣いてたよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月19日
本部で一斉に対世帯数200%やってるんだけども、隣の地区では80部以上足りないそうですぜ。みーんな嫌になってる。どっかで誰かが責任感に潰されて泣く泣く払う。。。@sougaku_salon
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月19日
しかしさあ、新聞啓蒙足りないからって、主要メンバーで頭割しろ!なんて指令出したら、すぐ知れ渡るわけよ、地区に。それ聞いて頑張ろうって人がいるか?逃げるに決まってるじゃん。余計に誰も寄り付かなくなるよ。バカなんじゃねーの。自爆テロかよ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月19日
200%月間は、地区の世帯数に対して倍なので、数は決められないし、ずっと変わらないのでやんす。大体の話で、100世帯、普段の基数は100部、今月の目標は200部。活動家は5名ほどという悲惨さ。足りない分は5人で割り勘で購読しろということです。 @kamack777
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月19日
年に二回の新聞200%、一人20部のノルマを課せられるとして、不足分は地区の連帯責任で実費で負担させられるとして、あなたはそれでも活動家でいられるか。ソウカはこんな地区も作り出してる。きっと日本中にある。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月19日
結局誰かがウンザリしながら贈呈するっていうパターンが一般的なんでしょうね。うちの周辺では、そうしてた人たちが拒否し始めたから、「主要メンバーで頭割」ってのが始まったんだ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月19日
地区じゃない。圏の単位での方針。私の地区は数字的にまだマシ。 RT @komeiwatchdog: その地区は明らかに異常。 地区部長・婦人部長は解任もの。学会本部に相談すべきです。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月20日
本部に相談してどうする。。。魔女狩りでもすんのかな。誰に責任押し付けます?ってか。指示を出す方もおかしいけれど、従う人がいて成り立つんだよ。従った責任もあるんだよ。あの幹部が異常だったからでは済まない。もし済むなら、どんだけ恐怖政治の組織なんだ?って話。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月20日
てかね、直接的な指令を出すか出さないかの違いだけで、新聞の贈呈なんてのは、明らかに全国規模で行われてる訳よ。やってる本人は強制されてないって言うだろうけど、だからそれが「カモ」だっちゅう話。そんな地区は異常だなんていうのは、泣く泣く贈呈する地区や支部の幹部の現実を知らないだけ。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月20日
で、後日談。。。
そういえば、先日の新聞啓蒙の不足分頭割りの件をさ、「そうまでして勝利しようという心が素晴らしい!」と絶賛してたよ。うちの本部の人。( ̄(工) ̄)
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月22日
「意見の違う人はどうしても出てくるけれど、仏法は勝負だから、勝利することが前提なのは理解して貰うしかない。」だそうな。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月22日
でやっぱ「仏法は勝負」は、現場ではノルマ達成の義務として語られるんだよね。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年3月22日