2013年7月25日木曜日

「何も変わらなかった」と嘆く人へ。



「自分の中に答えを見つける」ということの意味が分からなかったり、
難しいことだと考えてる人がいる。
本当は簡単なことなのだけど、他人からみると難しい。
そこを突き詰めると、真の教育や宗教には、人をコントロールする力は無いってことがわかる。

『あなたの言うとおりにしたのに何も変わらなかったじゃないか。』
といって、誰かを責める人は多い。
私の周りに大勢居る、ソウカ嫌いのソウカ信者さんたちも、
だいたいそういうムードを持ってる。


「何もすることはない。
ただ心を開いて静かに耳を傾け、
あの花の美しさを見つめたまえ。」


静かに「美しさ」を見つめたまえ。
必ず見えるはずだ。そこに「ある」いのちの躍動が。

2013年7月16日火曜日

「人を救う」ということ。


更には魚の釣り方にも色々あって、
釣り場によって獲物が違えば、餌も違う。

様々な手段があって然るべきなんだけども、
この餌こそ正しい!この釣り場こそ釣れるのだ!
みたいなことを言って利権を生み出し、
お客さんを奪い合って争うのが「宗教教団」だと思う。

でも実際は、先人に教わらなくても、
自分で釣り場を探し出し、
ここらの魚は何を食べてるか観察して、
独自の道を行ける人もいる。

どこが釣り場なのか、
そこらの魚が何に食いつくか。

いちいち探求するのが面倒な人や、
それは効率が悪いと考える人、
どうにも観察のセンスがない人や、
急を要する飢餓状態の人には、宗教教団が必要で、
教団に加入して手っ取り早く教えを得たらいいよね。

でも、せっかく教わった釣り場や釣り餌は、永久に有効なわけではない。
状況は刻々と変わっていくから、
「その釣り場で釣れたのは、遠い昔のことじゃったのお。。。」
ってな日が来るかもしれない。
そうすると、また教団に教わりに行く必要があって、
教団への依存は消えることはない。

教団も、信者を確保することで利益を得るから、
そこを離れられない人だけではなくて、
離れられる人までもキープしておこうとして、
「釣り場を教えたのは私ですよね、あなたは私に恩がありますよね」
と言って、人を縛りつけようとする。
そうなればもう、本来の目的を外れた営利団体だ。

真に「人を救う」ということは、
手段を伝授することではなくて、
手段を発見する力を磨き、
自分で道を発見し歩いて生きていける自信を身につけ、
手段を失う恐怖から解放してあげることだ。

依存のとなりには失う恐怖がある。
つまり、宗教とは人を救わない。
「ありのままを見つめる目」「発見する目」だけが人を救う。

ルサンチマンの覚え書き


更にキツネさんは、

「ぶどうには糖分がたくさんある。
糖分の取り過ぎはいけない。
ぶどうなど食べない生き方こそが正しいのだ!」

くらいまで、エスカレートしていく。
終いには「ぶどうを食べない健康法」を世に広め始めるんだ。

2013年7月11日木曜日

「ザ・ルームランナーズ」

むかーしむかしのことじゃった。( ̄(工) ̄)

「家の中は安全で、この中にいることが一番の幸せなんだよ」と教えられ、
外も見えないお家の中で、毎日、
「自分の限界を破るルームランナーによるトレーニング」に励む一団が居た。

「幸せの呪文」を唱えながらトレーニングをするから、
外の音は聞こえにくいのだが、ある時、外からの声が聞こえた。

「なんでそんなところに閉じこもってるの?
外は広くて自由で、風があって気持ちいいよ。
どこまでも走っていけるんだよ。
雨が降ったって、それだって楽しいよ♪」

外は自由だと?・・・心が揺れる。しかし、

「そうだ!これがトレーナー先生がいつも言っていた「魔の誘惑」だ!
奴らは自由でもないくせに「自由」を自分勝手に決めてるだけだ!」

騙されてはいけないぞ!と互いに声を掛け励まし合うが、
仲間の数人が外へ行ってしまった。。。

「あいつらは誘惑に負けたんだ。不幸になって後悔してるに違いない。」
「どこかで惨めに野垂れ死ぬに違いないんだ。」
「たまに家に帰って来るやつがいるが、口を揃えてやっぱりここが安全だと言うじゃないか。」

みんなで話し合い、出て行った仲間を一頻り嘲笑い、こっそり不幸を願った。
そしてまた「幸せの呪文」を唱えながらトレーニングに励む。

ある日、突然ドアを開けて入ってきた新入りがいた。

新入りは、幸せの呪文やトレーニングを見て、
しばらくは感心して、同調している様子だった。

「でも・・・なんか変だべ・・・・。
だって、その呪文やトレーニングの成果って、どこで発揮すんのげ?」

新入りの質問に返ってきた答えはこうだった。

「ここを出ては幸せはないんだ!
ここを出たやつはみんな不幸になるんだ!!
こここそが!!!・・きうおkじぇいkっぉけい×gおい!!!!」

新入りは言った。

「オラ、外からきたげども、そんなことねーべ。
そりゃもちろん、風が吹いたり雨に晒されたりするげども、
それが生きるってことなんでねーのげ。
で、そのためのトレーニングでねーのげ。
オラ、やっぱ、外のほうが好きだべ。」

新入りは出て行ってしまった。

「あいつは魔に負けた弱い人間だ。
今頃不幸になって後悔してるに違いない。。。」

いつしか彼らは、
出て行った仲間たちの不幸を願う呪文を何時間も唱えるようになった。

「新入りは好き勝手言うからもういなくてもいい。
家の中で仲間を増やそう。
そのためには、ここで生まれた若者を家から出してはいけない!」

彼らは「青年こそ宝」のスローガンを掲げ、
無言でルームランナーのスピードをあげた。



次回に続く。。。。わけねーよ。( ̄(工) ̄)

「努力がないときに生じる優しさ」自分の歌を歌え。

君たちは、花をつくづくと見つめたことがありますか。花びらのすべてがあり、なんて驚くほどに的確なのでしょう。しかも、そこにはとてつもない優しさ、よい香り、美しさがあるのです。そこで、人が秩序を持とうとするとき、その生はとても的確になるかもしれません。しかし、それは、花のように努力がないときにだけ生じてくる優しさの質をなくしています。そこで、私たちにとって困難なのは努力なしに的確、明快で、のびやかでいることなのです。
ーー
いつも何かになろうとしていたり、とても注意深く思考を整理していたり、ある思考を他の思考よりも好んで選択するのは、退屈な人物です。このような人物はとてもきちんとして、明確なのかもしれません。的確な言葉づかいをするかもしれません。とても注意深くて、相手のことを配慮するかもしれません。しかし、彼は生きることの創造的な喜びをなくしているのです。
ーー
それで、何が問題なのでしょう。どうすれば、この生きるということの創造的な喜びを持って、感情がのびやかで、思考が幅広くありながらも、生において的確、明快であり、秩序を持てるのでしょう。
ーー
私は、長くふさふさとした尾ときれいな毛をした二匹のアカリスが、十分間ほど止まらずに高い樹で、上へ下へと追いかけ合っているのを眺めたことを覚えていますーーそれはただ生きていることの喜びをでした。しかし、物事を深く感じないのなら、生に情熱がないのなら、君にも私にもその喜びはわかりません。良いことをしたり、ある革命をもたらすための情熱ではなくて、物事をとても強く感じるという意味での情熱です。
ーー
それで、君たちはとても強い感情ーー情熱や怒りの感情を持ち、それらを見つめ、それらと戯れ、それらの真実を見出さなくてはならないわけです。というのは、単に感情を抑圧したり、「私は怒ってはならない。情熱的に感じてはならない。なぜなら、それはまちがっているから」と言うなら、心がしだいにある考えにこり固まって、それによってとても浅はかになると気づくでしょう。君たちは非常に利口で、百科事典のような知識を持っているかもしれません。しかし、強く深い感情の活力がなければ、君たちは香りのない花のようなものなのです。
ーー
若いうちに君たちがこれらすべてのことを理解することが、とても重要です。なぜならそのとき、大きくなって君たちは本当の革命家になるからですーーある思想形態や理論や書物によるところの革命家ではなく、ひたすら融和した人間として、言葉の完全な意味での革命家であり、そのために君の中には古いものに汚染されたしみも残っていないのです。そのとき、心ははつらつとして無垢であり、したがってとてつもない創造力があるのです。しかし、このすべての意義をのがしてしまうなら、生はとてもさえないものになるでしょう。というのも君たちは、社会や家族、妻や夫、理論や、政治的、宗教的な組織に圧倒されてゆくからです。それで、君たちが正しい教育をうけることがとても切実であるわけです。それは君たちがいわゆる文明社会の殻を破って、反復する機会ではなく、本当に自分の中に歌があり、したがって幸せで創造的な人間である個人になるように、助けてくれる先生を持たなくてはならないということなのです。


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2013年7月8日月曜日

「宗教心と美しさ」

宗教的であるということはどのようなことか、知っていますか。寺院の鐘は遠くですてきな音がしますが、それとは関わりがないし、また礼拝や宗教家の儀式やその他の無意味な儀礼とも関わりがありません。

宗教的であるとは真実に対して敏感であることなのです。君のすべてがーー身も心も頭もーー美しさと醜さ、杭につながれたロバ、この街の貧しさと不潔さ、笑いと涙、まわりのあらゆるものに敏感です。存在全体へのこの敏感さから、善や愛が溢れます。そして、この敏感さなしでは、才能があり、立派に着飾り、高価な車に乗り、周到にきれいにしようとも、美しさはないのです。

愛はとてつもないものでしょう。自分のことを考えているなら、愛せません。それは、誰か他の人のことを考えなくてはならない、ということではないのです。愛はあり、それに対象はありません。愛する心は、真実、真理、神の動きの中にあるため、本当は宗教的な心です。

そして、美しさとは何かを知りうるのはそのような心だけなのです。どんな哲学にも囚われず、どんな制度や信念にも閉ざされず、自分の野心にも駆りたてられず、したがって敏感で鋭く、見つめている心ーーそのような心には美しさがあるのです。


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2013年7月1日月曜日

解脱。



高校中退でロクな仕事がなくて、
ナメんなよと自営業をはじめ、
手帳と自己啓発書を片手にがむしゃらに働いて、
会社にまでなった。

業績の悪化と共に燃え尽き、
身体を壊して、うなだれて創価に入った。

身体を治し、結婚したら、
今度は学会活動をしない夫に苛立ち、
思うように折伏が進まないことに焦り、
なんとかして人を変えようと躍起になった。。。


今、創価を離れ、
アルバイトをしながら、
好きなものを育てて作って販売して暮らしている。

時間がゆったり流れ始めた。
時間が私の手の中に返ってきた。
時間が私のものになった。

私はもう「立派な何者かになりたい」などと思わない。
私はもう、生まれ変わる必要はない。
私は輪廻を脱した。