2013年3月31日日曜日

「永遠の指導者」

正義。



水戸黄門とひれ伏す人たち。
何かに似ている。

前向きな人。




妙に暗示的な言葉遣いで、前向きなことを呟く人が嫌いだ。
人に「気づきを与えたい」みたいな遠回しで屈折した正義の押し付け。
そして自らの言葉に雁字搦めになる。

2013年3月28日木曜日

すべてに反逆するということ。





「不安ゆえに自由になどなりたくない」のだ。




結局のところ、彼らの主張は、
「こうすれば、成仏できる。幸せになれる。」っていう話なわけだ。
当然、裏返せば、
「こうしなければ、成仏はない。幸せになれない。」って話だ。

で、私は、「彼らの言う成仏や幸せは、本当の成仏や幸せではない」っと言っている。
「それは結構です、私には必要ありません」と言っているんだ。

信心で幸せになりたいと言いつつ、
その条件は飲めませんねぇ・・・というのは我侭だっちゅう話。

あ。だからって学会の現状肯定じゃあない。
いまやその「条件」がおかしすぎっちゅうのは、確かなんだけどね。

私は、学会について、単に不満を述べているのではなく、
根本から否定してるっちゅう話。

だからもう、「愚痴はいけませんよ」ってな説教はやめておくれ。



2013年3月27日水曜日

発見と発明。


ちょいちょいツイッターをしていると、
こんなフニャっとした思いつきも残っていく。

これって結構なひらめきやな。

発明は、発明した人や団体が独占して商売しようとしたりするけども、
発見されたものは、みんなのもの。所有権を主張するヤツは嘘つきだ。

発見されたものは、誰がいつ見ようと自由だし、自由な解釈ができるけど、
発明品には、発明者の意図と注意書きがビッシリ書き込んである。

発明品の宗教は真理じゃないってことじゃないのかなあ。
だって普遍じゃないってことだもん。

一念三千は発見だけど、師弟不二は発明品だ。
因果具時は発見だけど、御本尊は発明品だ。

2013年3月25日月曜日

「新聞啓蒙」に思う。









このご婦人は「財務」を引き合いに出し、
頭割を強制されかけて困っていた地区の人を助けるために一人立ち上がり、
広布のお役に立てたと満足気らしい。

地区幹部たちの中の一人は新聞配達員で、
「80部の新聞はポストに入らないと思うんですけど……」と
そこかよ…ってな不思議なツッコミをいれていた。

実際、こういう場面に遭遇すると感覚が麻痺してしまうけれど、
学会内の問題は、すでに信心云々の話で済まされないという一つの例ではあると思う。

新聞啓蒙、対世帯数200%推進月間について

「文底読み」



2013年3月23日土曜日

かっぱの目的








学会の中の真の理想。。。と書いたけれどね、
例えばそれが「全人類の幸福実現」で、そのために「万人に具わる仏界の生命を湧現しよう」と広める(=広宣流布)のだとして、
そこまでは異論はないよ、もちろん。
そう思ったから入会したんだから。

だけどね、このご本尊でなければだめ、学会でなければだめ、この先生でなければだめ、
そんな「幸福実現の特許を持ってるのは学会です」みたいな話ばっかされて、
それを広めるための活動がすべて正義とされるわけだけど、
でも、学会は正しいみたいな根拠はどっこにもないんだよね、上手く煙に巻いてあって。

それらしき話は聞くけど、ファンタジーだし、
希望と方法をセットに提示されると、暗示的に脅しになってしまって、
よくわかんないけど言われたとおりに戦おうって、
盲目で猪突猛進な人ばっかりになちゃうのさ。
そんな人がいくら仲間を増やしても広宣流布とは程遠いよ。
わけわかってないスタイルだけのコピーなんだから。

仏界の湧現?それは瞬間の気づきのことだよ。
誰だっていつだって無条件にできるのさ。
(こういうと宗教ビジネスが成立しない。だから本来の法華経は迫害されるんだよ。)
そこへ条件をつける奴らは誰一人信用しちゃいけないんだ。
私はそのことを身近な人と、耳を傾けてくれる人に広めたいんだ。

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ちなみに、それでも正しさを主張するために、
識者、学者、有名人の皆様のご意見などを活用して、
「あの人も言ってる、この人も言ってる、だから我らは正しい」って、
毎日確認のために大声で叫び続けるのがあの新聞だね。

新聞啓蒙、対世帯数200%推進月間について










で、後日談。。。


後任人事の覚え書き2






「退会する勇気」が必要な人たち。


2013年3月22日金曜日

森田さま覚え書き























口封じに不満分子を追い出すのは良い案だ。
しかしひとつ言い忘れていた。
旦那も仕事仲間もほぼ学会員という環境に生きる私は、
退会しようとも学会と無関係ではないゆえ黙らない。
残念ながら。

信心に師匠はあり得ない。


このすごく単純な話が、どれくらいの人に通用するんだろう。

喜んだり、幸せを感じたり、感謝したり、
それはすべて自分の中から湧き出した時に自分のものになる。

「友のために尽くすことこそ幸せ」だとか、
「報恩感謝の心こそ最も尊い」だとか、
人に教わって、「よっしゃ、そうしよう」…なんて発想は、
「こうすれば幸せになる」という条件の元に動いているだけ。

たとえ思った通りになったとしてもだ、
それは借り物であって、さらには、
条件を与えてくれたナニモノかに報恩と服従を強いられるっちゅう罠にハメられている。
まんまと手枷足枷をハメられてしまうんだ。

真の宗教指導者なら、
その意味をちゃんと理解して、
「友のために尽くすことこそ幸せ」なんてスローガンは使わないし、
「断じて勝て!」なんて言わないね。

指導者の器じゃないのさ。

てゆっか、真の指導者なら、そもそも師匠になろうとはしないわな。

2013年3月21日木曜日

人間でありたいならば。


今日の悟り。


すべての人にそんな力が備わってることを仏性と言うんではなかろうか。

2013年3月19日火曜日

後任人事の覚書き

地区部長&婦人部長夫妻がもうすぐ転勤で引っ越していく。
婦人部長は新聞長兼務だったので、後任の新聞長は、現副新聞長の私に、
現白ゆり長が地区婦人部長になったとして、
白ゆり長を副白ゆりの私にとの人事案がある。

脱信心宣言をし、すべての会合を拒否しーの、新聞も止めてくれと懇願中の私に、
そんな話をしてくること自体、
会を軽視していて他の会員さんに失礼だろと私は思うんですが、
そこまで切羽詰まるほど、田舎には「人材」とやらがいないのですよ。

精神虐待の経験があるというお話なのか、なんだかよくわからないんですが、
なんとも言い難い別世界の判断基準というかなんというか………



条件付きの幸せ


2013年3月10日日曜日

「日本人の多くが宗教を敵視するのは、すでに宗教人だからである。」

iwatamの個人サーバ

これって普通に知っておくといいね。

こういうの知らないから、某団体への入会セミナーに誘われた時、
それまでの宗教の嫌なイメージと違って、斬新なものに思えて、
「私の考えてることと同じっぽいじゃん」って思っちまったのさ。

結構染み付いちゃってる宗教批判的な精神が、
実は王道だったりすることを知らず、
カルト教団をみて抱く宗教のイメージを、
宗教ってこれだからやだよな……って一般化する。

しかしだな、その心がだな、
王道的自由な思想を掴みに利用するだけで、
中身は、正義だ悪だ修行だ秘法だって言ってるような教団に、
つけ入る隙を与えてしまうんだ。

「この人ら、宗教やってる割に結構話わかるじゃん。。。」
あの人たちは、不思議なほど、そんな空気を持っている。
本当は、強烈なダブルスタンダードの渦中にいるのだけれど。

2013年3月9日土曜日

負けたっていい。

名言botなどでよく見かける永遠の指導者の励ましとやら。


別に戦場でなくても、リアルな生活の中で「暴力」に晒されるとき、
絶対に負けるな!と言ったら、余計に人を苦しめる場合がある。

負けたっていい。生きていれば。

負けるという言葉にはいろんな意味がある。
何を負けと考えるか。
人よって違うわけ。

逃げることは敗北だ!……もいれば、
逃げて生き延びればいい、死ぬことが敗北だ。……もいる。

相手の条件に屈する事は敗北だ!……もいれば、
折り合いをつける方がいい、交渉決裂こそ敗北だ。……もいる。

その意味をどこまで考えての「絶対に負けるな!」なのか。
短いスローガンってのは、自由な誤解と錯覚をもたらす。


獅子は千尋の谷に我が子を突き落とさない。

「いとも容易く駆逐できる勢力」





「理想通りにいかないゲームからはおりる」
まるで駄々っ子のように。
何の力も持ち得ない勢力だ。

で、魑魅魍魎の世界だからこそで、
それを信仰の世界と一体化させることは避けるべきよね。
政治のどろどろが信仰を傷つけ、破壊してしまう。

しかし、この方のバランス感覚は良い。
決して好きな考え方ではないけども、
あの世界の中で、よいバランス感覚を保ってらっしゃると思う。

私がもし会に残って活動するなら、この方のようにありたい。
いや、残らないけども。

2013年3月4日月曜日

体質的に無自覚に幻想を共有する集団

功徳があると信じて健気な活動を続ける人達も、
みんながみんな本当に納得してるわけじゃなくて、
「財務なんかしても何もいいことなかったじゃないよ!」と時折見せる感情の爆発がある。
そういうの見るたびに平然と功徳を説くヤツらに怒りを覚える。

こんなこと言うと、
宗門さんとかは「そりゃオタクは偽本尊だからねw」てな感じやろけど、
それもほら、功徳を安っぽいご利益と思い違ってるってこと。

財務に功徳がないのは当然だ。
功徳とは我が身に顕わすもの。振る舞いに現れるもの。縁を紡ぎ感じるもの。
お金で買えるようなものだと言うなら、逆に願い下げ。

財務に功徳がないと嘆くご婦人に対して、
会の中からも思い違いを指摘される人は多いかもしれん。
財務は真心だとか、功徳を期待してやるものではないだとか。

しかし、財務の前には婦人部を対象に「こんな見返りがありました」という体験談を
財務の功徳体験として叩き込む集会が何度も開かれるのは事実。

それを会の意向、体質と言うのが間違いだとは私は思わない。


2013年3月2日土曜日

「当たり前」は当たり前じゃない

私はね、昔、運送会社を経営してたんだよ。

まだ景気の良い時代に佐川の下請けで儲けて、仲間と会社を作った。
同じように一匹で下請けをやってた人たちを組織して、20人くらいの人を動かしていた。
同業者の中でも桁の違う売上げを誇って有名になったもんだよ。
ウチで仕事をしたいって人が、他業者からどんどん流れてきて、最大の時は40人くらいいたかな。

でも、ちょうど今くらいの時期だった。
下請けさんの一人がある日、過労で仕事場で私の目の前で亡くなったんだ。
そっからだね。お金儲けしか眼中に無かった私が、
生き方ってなんだろうって真剣に考えるようになったのは。

元請に呼び出されて「人間らしい生活をしなさい」って説教されて、
「遺族に訴えられないように手回しを怠るな」って言われて。
そりゃそうさ。朝は5時から夜は11時まで365日お休みも無く働いてたんだもん。

亡くなった人だけじゃない。私もそうだった。
代わってほしくても私の代わりが務まる人はいなかったし、
20人とその家族の生活を背負ってるし、
「もう一生この生活から逃れられない」って思ってたから、
辞められた時はホントに嬉しかったねぇ。

もうお金なんか要らない。
こころが震えて喜べることをして生きていきたいって思った。

若い時は、時給で仕事をするなんて、時間を切り売りするようで馬鹿にしていたけど、
今、アルバイトしながら、
「内容に関わらず時給がもらえる有り難さ」とか、
「会社に行くだけで仕事がある有り難さ」とか、
「日曜日には仕事を忘れてお休みできる有り難さ」とか、
ヒシヒシと噛み締めて喜べるんだよね。

普通の人には当たり前のことが、私にとっては当たり前じゃなくて、
それだけで幸せを人一倍感じることができるんだよ。
貴重な体験をした。本当にそう思う。

石井さん、ありがとう。
あなたのお陰で今がある。
もう一度こころからご冥福をお祈りします。