2013年2月28日木曜日

いまだ支配下にあり。


執着や批判は、愛憎あってこそと思うわけ。
私も一度は、教団の風潮にどっぷりハマって馴染み切っていた。
「教団を疑う」という罪悪感にずいぶん悩まされた。

今はもう、支配下にはない!と言い切りたいところだけど、
文句を言いたい気持ちは、逆に強まっている。
今度幹部が家庭訪問にきたら、どうやって返り討ちにしてやろうか…など考えている。

未だ支配下なんだ。

墓は要らん。


自分の存在のすべてが、別の命の糧となって、初めて輪廻だと思う。
命の連鎖のなかにあってこその輪廻だと思う。
骨壷に閉じ込められたら、その人の全体の一部が、連鎖から外される。
きっとご先祖らは生まれ変わってなどいない。

2013年2月26日火曜日

「させていただく」




返す言葉が見つからないのはなぜだろう。

2013年2月24日日曜日

「大いなるいのち」






私はね、そういう命の連鎖が輪廻だと思うんだ。
死した後、別の命の一部になる。
地球っていう大きな命の中のゆらぎのようなもの。

2013年2月22日金曜日

たくらみ


条件を出してくる人は、なにか企んでる。

人を従わせるには、
規則を破れば、罰を受けるという恐怖で縛る方法はもちろん、
期待に応えれば、自分にも利益があると思い込ませる方法もある。

御法主や師匠の期待に応えれば、
飛ばさせていただけるのだ。
最初から自由に飛べる翼があるのに。

2013年2月20日水曜日

信仰と宗教は違う。

誰かのある発言を読んで、
期待外れで気に入らなかったのだろう方が、
「今までの発言も信じられなくなる。」
って言ってた。

言動が変化したから「これからのあなたはもう信用しない」というなら分かる。
以前の発言まで遡って信用しないというのは、依存のある一種の信仰だったのかもしれん。




誰かの言葉に感動したり賛同したりする時、
そう受け止めた自分がいるなら、
その誰かが後に手のひらを返そうと、
「私は感動した」という過去の事実は変わらない。

私の言葉なんぞ、信じてもらっては迷惑だ。
せめてご自分で考える材料にしてくれ。
そしたら、考えたのはあなただ。
私がその後に、いかなる変貌を遂げようと、
私はあなたを裏切らないし、あなたになんら迷惑をかけることもない。

その発展型として…

教えに感動し、心で受け止めれば、
教団が手のひらを返しても、教団に見切りをつけるだけで、教えは残る。
それが宗教。

教団が変わってしまった。→ 裏切られた。 →何も信じられない。
それが信仰。

教団にクソ文句を垂れるのは、
大概にしておいた方がいい。
見切れば済む話だ。


2013年2月17日日曜日

Glenn Gould plays Bach

覚え書きついでにこれも残しておこ。
グレン・グールド。ピアノは歌うんじゃ。

テレマン「無伴奏ファンタジー」

テレマン「無伴奏フルートのための12のファンタジー」
たしか7番。
土橋香の子さんという方がピッコロで演奏してはります。
上手い!

バッハの「バディネリ」

クラシックでこのグルーブ感(≧∇≦)
チェンバロはリズム楽器だったんだ。

Bach - Bwv1067 Orchestral Suite - 07 - Badinerie

サークル「活動」教団

数日前、「教団に所属しといて全否定する人の気がしれない」
というつぶやきを見かけたので、
精神的に離れてしまった宗教団体には、
籍はあってももはや所属はないのだという話をしたら、

という事は、所属する云々という意味合いは、宗教団体と、サッカー・野球などのスポーツや会社組織とでは違っていると理解したら良い?

というご質問を頂いて驚いた。

同じはずがないではないか。。。。
そこ、説明が必要なとこなんでしょうか???





本当にサークル活動と同じ感覚で、教団に属する人も世の中には居るのかもしれない。
というか、あの教団にはそういう人が多数派で、
だから付き合いきれないのかもしれないな…と思った次第です。

目指さない場所




2013年2月16日土曜日

信仰と形式。







ご本仏がこう約束されているのだ…だとか、
それが正法なのだから逆らえない…だとか、
そんな言い方をされたことがある。

文証とは、教主と信者との間に交わされた、
悟りや幸福を報酬とした取引の契約書だとでも言うんやろか。

それは自ら見出すことをせず、
権威ある何かの提示する「失敗しそうにない方法」に人生を委ねる生き方。
遠回りせず、危険を犯さず、安全に生きたいという欲だ。

自ら見出すことをやめたのは、
権威に蔑まれ、教育に標準化され、内なる宝珠を見失い、
精神が服従してしまったからだ。







教主との契約を守り伝える教団は問答無用に正義となる。
それは断固守り抜かなければならない。

方法はいつか「活動」と呼ばれ、
そして、本来の目的から離れて行く。

瞬間だけが生だ。
瞬間こそが永遠だ。

三世永遠の幸福もいいが、
生きている今の瞬間を「活動」に生きることは、
永遠に「活動に生きる」ことを意味する。
永遠に「手段」に生きることを意味する。

形式を重んじるとはそういうことだ。

相手を変える祈り



友人の学会員が、新しい職場で、ばーさん達にいびられている。
近所なので何度かお会いしたこともある人たちだが、
ストレスフルで、何かと決めつけてかかる意地悪なばーさん達だ。

しかし友人は「いい人たちばっかりで、あの職場に縁があったことが功徳だわ」とか言う。
「陰口は言わずはっきり言ってくれるからサッパリしていて良い」
とか言ってると思ったら、
面と向かって、生意気だのいい加減だの可愛げが無いだのと吊るし上げられて、
大泣きで帰ってきた。

確かに陰口は言わないようだけどさ。^_^;

そこで、学会員らしく「祈りで乗り越える」と言い始めた。
「祈られて変わらない人はいない」と言う。
祈りは必ず通じ、相手の態度が変わるのだそうだ。

でもね、長年のお友達だけども、
ばーさんが言ってたことも分かるんだよね。
友人は、人の話をきかないし、スタンドプレイが多いし、
良かれの思い込みが激しく、人の都合を考慮しない。


「どこまでも一人を大切にする人間主義」というのは、
身内オンリーなのだろうか。
都合の悪い相手を、都合良く変えてしまう…。

しかし、

変えられたばーさんにも五分の魂。

考えに縛られないこと

生において最も困難なことの一つは、考えに縛られないことです。

一貫しているとはどういうことでしょう。
本当にこれはとても重要なところです。
一貫しているとは、特定の考え方を変化なく守る心を持っていることです。

「こうしようと誓いを立てたので、一生そうしてゆこう」と言う心は、一貫していると言われます。
しかし、それは本当はたいへんに愚かな心です。
なぜなら、結論に達して、その結論にしたがって生きているからです。
それは、自分のまわりに壁を打ちたて、生を逃してしまう人に似ています。

心は単に一貫しているだけのとき、機械的になり、生命力や自由な動きの輝きや美しさをなくしてしまいます。
心は型の中で機能しているのです。

学びつづけているかぎり、教師はいないのです。
教師が生じてくるのは、あなたが生の過程全体を探究し、発見し、理解するのをやめるときだけ、です。

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もちろん「師弟」を想定して切り抜いた。

職人的技術の話ならカッコいいお話だけど、
「人生の師匠」を定め、一生貫くということは、何を意味するだろう?


愛のない世界

私たちはいつでも、絵を描いた画家は誰かを知りたがります。
画家の素性に関係なく、絵の内容を自分自身では決して発見したがることがないのです。
美しい詩だと言うのは、作者が誰かを知ったときだけです。
これは俗物根性で、単なる評価の反復です。

絵が美しいことを知覚して、大いに感動するのなら、誰が描いたのかということが、あなたにとって本当に問題ですか。

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最後にKは言う。
「本は焼き、放ってしまいなさい。」

○○賞を取った小説が売れる。
売れ筋ランキング順にモノが売れる。
行列のできる店に並ぶ。
その影で、価値を見出されずに埋れて行くホンモノ。。。

愛のない世界っちゅうのはソレだ。

2013年2月15日金曜日

ブログは覚書…ね。





ちょっと考え込んじゃってたんだよね。
でもTwitterはやっぱり流れ去って行く。
だから、私も自分の覚書のつもりでやろうと思います。

2013年2月10日日曜日

手段に生きる限り幸せは来ない

いかなるレベルでも、ほしい、なりたい、獲得したいという欲望があるかぎり、そこには必然的に心配や悲しみや恐怖があるのです。
豊かになりたい、あれやこれになりたいという野心は、野心自体の不潔さや腐敗性が見えるときにだけ、なくなります。

どんな形の権勢欲もー首相、裁判官、宗教家、導師としての権勢欲も根本的に悪いとわかった途端、もはや権勢欲は持ちません。

しかし、私たちには野心が腐敗的なこと、権勢欲が悪いことが見えません。反対に善いことのために権力を使おう、と言うのです。
これはまったくのたわごとです。まちがった手段は正しい目的のためには決して使えません。
手段が悪ければ、目的もまた悪いでしょう。
善は悪の反対ではないのです。悪いものがまったくなくなった時にだけ、善は生じてくるのです。

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ときどき、目的のための手段…という言い方をする。
それが間違っていたり、退屈だったり、望まない現実を辛抱するための言い訳だったりする。
しかし、生きているのは今だけ。
だとしたら望まない現実こそがリアルで、目的はそこに存在しない。
目的を目指し、手段に生きる限り、幸せは来ない。

2013年2月9日土曜日

本物と偽物の匂い







そっくりなんだ。
口先から発せられる言葉はそっくり。
だけど匂いが違う。

それを嗅ぎ分ける能力は、結構、生まれ持ったもののような気がする。

2013年2月6日水曜日

「ブルーハーツ」な思い出

あまりにも昔話なのですが、
自己紹介の代わりに。

高校を中退し、気の向くままバイトをしながら遊んでいた頃、
地元のライブハウスに「なんかすごいバンドが来る」と聞いて
友だちと出かけたのが始まり。

まだデビュー前だったそのバンドの
「スクラップ」「窓をあけよう」「ほんの少しだけ」という
3つの歌の詩が耳に残って、1ヶ月くらい頭ん中でリフレインしていた。

永遠なんていらないよ 僕が欲しいのは今
生きている間だけ ほんの少しだけ (ほんの少しだけ)

「苦労すれば報われる」そんな言葉は空っぽだ (スクラップ)

両手を拡げてこぼれない分だけしか
望んじゃいけない 欲しがっちゃいけない (窓をあけよう)

生きてるのは、ほんの少しだけなの?
苦労は報われるんじゃないの?
欲しがってはいけないの?

生きてるのは今だけなんだ。
「明日どこかの交差点でひき逃げされちゃうかも」しれないから、
苦労してる状態で今日を終えてはいけないんだ。
欲張ることは他の人のものになるハズのものを奪うことになるんだ。

三つ子の魂百まで。
私の発想はそこから始まっているのです。

組織から自立する



やっぱり宗教組織を想定してるわけっすが、
監視するということは、こだわるってことです。

で、それはこだわる価値がありまっか?
あると答えるなら、それはなぜ?

例えば政治であれば、選挙という手段で我々も参加することが出来る。
というか、選択し投票するのは責任なわけだけど、
宗教組織っちゅうのは、当然、教義なり指導なり文証なりを元にしていて、
「正しく導く」とか「指導主義」だとか言って、
結構な勢いで一方通行な形態なわけですよね。

決して民主的組織ではないわけで、
それを頑張って監視しても、出てくるのは批判だけじゃありませんか?

そんなことよりも、組織から心理的な自立をし、
自主活動、「自活」をすべきだと思うんです。

人の心を動かすのは、理屈じゃなくて感動。
自分の言葉で、身近な誰かに自分の感動を伝え、
相手の心を震わせるように、生命力を全開にして語るんです。

入会も組織も何の関係もなく、
純粋な心で、良いことを共有しようという姿勢。
私は、それが本物だと思います。

まあ、感動ではなくて、
「こうすれば願いが叶うらしいよ…」ってな損得信心をしてる人には、
なんら関係のない話なんでしょうけどもね。

2013年2月5日火曜日

「教育の愚かな実用性」

愛は世界で最も現実的なものなのです。

愛すること、優しいこと、欲張らないこと、野心を持たないこと、人々に影響されずに自分自身で考えること―これらはみなとても現実的なことだし、現実的で幸せな社会をもたらすでしょう。

しかし、献身していなくて、愛していなくて、わずかな肩書きをつけてはいても、本から拾った情報の単なる調達者にすぎない先生は、君たちに、こういうことは現実的ではないと言うでしょう。なぜなら、本当に考えてみたことがないからです。

愛するとは現実的なことなのです。ひとりで立つことや、どんな問題をも自分で考え抜くことがまったくできない市民を生産する、このいわゆる教育の愚かな実用性よりも、はるかに実用的なのです。

ーーー

本当は生はとても美しく、その豊かさ、深さ、とてつもない美しさは、あらゆるものーー組織的な宗教、伝統、今の腐った社会に対して反逆し、人間として何が真実なのかを自分で見出すときにだけ、堪能できるでしょう。
模倣するのではなく、発見する。それが教育でしょう。

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ちょいと以前なら、説教くさいおっさんやな…とスルーしていたかもしれない。
今出会ったから、この人の言葉にリアリティが見えた。

教育は、権威や権力を欲しがる野心的な人たちが作った社会へ、
人を順応させるためにある。
その過程で疲弊しながら、感受性を麻痺させながら成長して、
模倣の生き方が生んだ不安と恐怖に怯えて生きるんだ。

正体の見えない不安を抱えて、それに無自覚な人が多いのは、
無理もないというか、当然のこと。
その恐怖でコントロールするために教育があるんだから。

気がついたというより、思い出したというほうがシックリくる。
高校一年の夏休み、すべて無意味に思えて学校を辞めた。
あの頃のほうが、今よりもっと気づいていたかもしれない。

2013年2月3日日曜日

「敏感であるということ」

敏感であるとはどういうことか知っていますか。確かにそれは、物事に対し優しい感情を持つということです。動物が苦しんでいるのを見て何とかしたり、大勢の人が素足で歩くから道の石をどけたり、誰かの車がパンクするかもしれないから道の釘を拾うのです。

それらが自分の物だからというのではなくて、ただ物事のとてつもない美しさに目覚めているからです。

深く敏感になったとたんに、自然に花は摘みません。そこにはものを壊したり、人々を傷つけたりしたくないという自然な願望があり、それが本当の尊敬、愛を持つということです。

心がこの愛の感覚に満たされることはとても重要です。そのとき君たちは幸せな人間になるでしょう。そして幸せだから祈らないし、神を求めもしないでしょう。というのは、幸せ自体が神であるからです。

愛について話をし、愛を感じて、これを養い、宝とすることはとても重要です。そうでなければ、愛はすぐに消失してしまうでしょう。というのは、世間はとても残忍だからです。

しかし、心にこの愛というとてつもないものを持ち、その深み、歓喜、忘我を感じたとたんに、君にとって世界が変容したことを発見するでしょう。

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規則で抑制しているだけのとき、そこには恐怖がある。
権威であったり、飴と鞭を駆使して人を従わせることも同じだ。

わからないから従うのも同じ。
例えば「凡夫の浅知恵」などといって、自他を蔑むのは謙遜の類などではない。
それは、判断して失敗することへの恐怖だ。

恐怖による見せかけの尊敬、
それは服従という。
例えば師弟などという言葉のカラクリに気づけ。

なんの条件も必要なく、私たちは幸せになれる。
それは生まれながらに感受性という宝珠を持っているからだ。

自らを解放するのは「法」を媒介とした自分自身

 非現実的な特別の人格的絶対性を認めず、哲学としての「法」(法華思想)への帰依とその実践を求めるのは、救うものと救われるものといった、二元論からの脱却を促すものとも思える。自らを解放してくれるのはどこか遠くにいる特別な絶対者などではなく、「法」を媒介とした自分自身なのだ、との。(はじめにネンブツありき?:進工舎の人びと)

『思想性を伴わない「唱題」にはどんな意味があるのか』で紹介した@sinkousyaさんの、今から2年前の記事。

依法不依人の法理は、
「先生の真似をする、指示に従う」ものではないどころか、
それを否定するものであって、
法華経の思想を自らの生き方とする実践の推奨。

万人が実践可能な、道理としてある仏法なのに、
神秘的なものを握ってるかのように振る舞う特権階級と、
わからないものには取り敢えずひれ伏し有難がってしまう民衆。

いいや、皆さんはひれ伏す必要はないんだ!と主張したはずの日蓮。

日蓮の思い描いた仏法のあり方と、
現存する教団の主張との差異を考えずにはいられない。

しかしまあ……
模倣の対象と尊敬の対象とは違う。
いつだってどこにだって尊敬できる「先達」って居るんやね。

2013年2月2日土曜日

「仏法は勝負」を根本としない

「仏法は勝負」とか言って、
「戦いましょう!勝ちましょう!」が合言葉の某教団。
その一部抜粋の元となる一文。

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」(「四条金吾殿御返事」1165頁)

「さきとし」「本とせり」は対応していて、
「さき」とは前にあるという意味ではなく、
「根」に対して「葉のさき、枝葉」との解釈をちょいちょい見かける。
ということは、勝負が根本ではないということ。

「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」
(「四条金吾殿御返事」1169頁)

仏法は道理(正しい)。道理(正しい)は勝つ。
仏法は、正しいから勝つ。
「権力者がどんな横暴を言おうと、正しいものは正しい。」
それが「道理と申すは主に勝つ物なり」。

この一文は、
「仏法は勝負」などではなくて「仏法は勝つ」ということ。

この「勝つ」という表現は、
例えば、勝負事に勝つということではなくて、
正しくあるという満足した心の状態を、
勝った状態と表現したのだと思う。

戦いだの勝負だのといった
目標を達成する = 勝つ
ではなく、
正しいと思う生き方で日々を生きる満足 = 勝つ
だと思うっすよ、かっぱ的に。

イズムの罪~「勝負主義」と「現証主義」について

「道理」と「功徳」

例えば、受験をするとき。

勉強もせず題目をひたすらあげたって合格するはずがなく、
そこはしっかり勉強して合格を目指すのが道理。

勉強という因を積み、
合格という果を手にする。

それは、題目をあげた功徳でもなければ、
「勝利の実証」として、体験発表をするような事柄でもない。
道理が通ったという話だ。

題目をあげて、功徳があるとすれば、
例えば、「何かしら人のために...」なんて考える
心根のよさが人柄ににじみ出て、
思わぬ場面で引き立てを得られたりする、
そういう話だと思う。

努力の因が、果を結んだということは、
自分の力で手に入れた、頑張ったのよねん♪と
自分をほめてあげるべき場面であって、
それを「信心のおかげ」と捉えると、
自己肯定感が薄れ、
自覚的かどうかは知らないが、
信仰がなければ勝てない私という「依存」が生まれてしまう。

「功徳の体験」が盲信者を生み出し続けるのは、
道理を功徳と錯覚し、依存が生まれ、
仏法とは名ばかりのご利益信仰へ堕ちていくからだ。



「心こそ大切」の使い方


お察しの通りの思いつきツイートです。

しかし、とことん考えれば、
形式を重視する方法で利を得ようとする組織の都合を優先させないためだとか、
ちょっと囚われすぎの心を開放するためだとかに、
使えそうじゃありませんか。

目の不自由な人には、
ご本尊は感じることができれば良いと言うでしょう。
言葉を発することが出来ない人には、
題目を唱えなければ功徳はない...とは言わず、
念ずるだけで良いと言うでしょうね。

「心こそ大切」ってヤツですもの。
ならば、入会、本尊流布、勤行、唱題をはじめ、
「こうしなければ功徳はない」
「このご本尊に祈らなければ功徳はない」
なんていう脅し文句から、
少し逃れて、軽やかになれるんじゃありませんかね。

結局のところ、万人の仏性を信じ、
たとえ異教徒であろうと無信仰者であろうと、
「あなたもまた仏なのです」と手を合わし敬う、
その “心こそ大切” なのだと思うっすよ。

その心が幸いとなって我を飾るのです。

思想性を伴わない「唱題」にはどんな意味があるのか




題目を100万遍、200万遍とあげて、
酩酊状態を誇りながら、"戦い"に明け暮れる人々がいる。
仏法は勝負」なんて物騒なスローガンを掲げて、
他を排し、異なる意見は折り伏せながら、同化を正義とする。

その先に、平和な共存の世界がある……だろうか。

ツイートの引用方法

どうやってブログにツイートを表示するのかなあ…と調べてたら、
PC版なら「ツイートをサイトに埋め込む」というリンクがあって、
簡単に出来るのがわかった。

でもiPadだと、タブレット用サイトに飛ばされて、そのリンクが表示されない。

でもでも、Mercuryとかで、
代理ブラウザ設定を使うとiPadでも出来たっす。




とまあ、こんな感じで。
 

久しぶりのブログ

日々垂れ流しのツイッターもまあまあ良いけども、
とある”兄貴”のブログを見ていて、
私も久しぶりにブログをやってみるっぺ。と思いました。

私まだパソコン通信なんて呼び名の時代からのネットユーザでして、
熱帯魚マニアだった時代、手帳マニアだった時代、
フルート、ガーデニングetc....
それぞれにHPやブログを立ち上げた事があるんですが、
結構、譲らないタチなもので、
荒れたりなんやかんやで現存するものはございません。

もういい大人なので、しおらしくやっていこうと思っています。

基本的に、ご意見ご感想、反論反感誹謗中傷は受け付けておりません。
てな感じで。

ちなみにですね...
河童(かっぱ)は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。(Wikipedia)
ってことで「かわわっぱ」と読んでください。