2013年7月16日火曜日

「人を救う」ということ。


更には魚の釣り方にも色々あって、
釣り場によって獲物が違えば、餌も違う。

様々な手段があって然るべきなんだけども、
この餌こそ正しい!この釣り場こそ釣れるのだ!
みたいなことを言って利権を生み出し、
お客さんを奪い合って争うのが「宗教教団」だと思う。

でも実際は、先人に教わらなくても、
自分で釣り場を探し出し、
ここらの魚は何を食べてるか観察して、
独自の道を行ける人もいる。

どこが釣り場なのか、
そこらの魚が何に食いつくか。

いちいち探求するのが面倒な人や、
それは効率が悪いと考える人、
どうにも観察のセンスがない人や、
急を要する飢餓状態の人には、宗教教団が必要で、
教団に加入して手っ取り早く教えを得たらいいよね。

でも、せっかく教わった釣り場や釣り餌は、永久に有効なわけではない。
状況は刻々と変わっていくから、
「その釣り場で釣れたのは、遠い昔のことじゃったのお。。。」
ってな日が来るかもしれない。
そうすると、また教団に教わりに行く必要があって、
教団への依存は消えることはない。

教団も、信者を確保することで利益を得るから、
そこを離れられない人だけではなくて、
離れられる人までもキープしておこうとして、
「釣り場を教えたのは私ですよね、あなたは私に恩がありますよね」
と言って、人を縛りつけようとする。
そうなればもう、本来の目的を外れた営利団体だ。

真に「人を救う」ということは、
手段を伝授することではなくて、
手段を発見する力を磨き、
自分で道を発見し歩いて生きていける自信を身につけ、
手段を失う恐怖から解放してあげることだ。

依存のとなりには失う恐怖がある。
つまり、宗教とは人を救わない。
「ありのままを見つめる目」「発見する目」だけが人を救う。

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