2013年6月24日月曜日

「人材育成」という暴力。

意味のあるものであろうとする。
期待に応えようとする。
必要とされる存在であろうとする。

その心は・・・そうしなければ自分に価値はない・・・。

そうして、
「社会の役に立つ大人になろう。」
「社会に貢献する人材になろう。」
と考えるようになる。

「お前の存在はデフォルトでは価値はない」という
暴力メッセージを受け続けた結果だ。

「役に立つ人材になれ」というのが暴力だということがわかると、
何が良いかって、一番はきっと「カルトに騙されなくなる」ってことだね。( ̄▽ ̄)

「宗教的信念によって行うときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない。」




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2013年6月16日日曜日

私にとってのソウカとは。





「組織は必要だ。一人では信心はできない。」
何度も聞くセリフだけど、本当にそう思って言ってるのかな。
もしそれが本当なら、宗祖こそ、いち早く民衆を組織しただろうにね。

それはウソなんだよ。
組織とは釣った魚を逃がさない為にある。

そんでもって、宗教心と宗教と信仰は違う。

宗教心とは、恐怖なく美しさを知る心。
宗教とは、分断し固定する観念。
信仰とは、拒否と盲目。

最初から自由は許さないという意思が掲げてあった。


山本リンダさんの入会セミナーで、入会しますと手を挙げてしまった後、
下のお部屋でリンダさんを交えた懇談会みたいなものがあった。

そのお部屋に掲げてあったのが「広宣流布」の額縁。

迂闊に手をあげてしまったことを一瞬後悔した瞬間だったけど、
その後の婦人部方の勢いに押されてしまって、
いつしか頭の中で「自分の選択は間違いじゃなかった」と思い込むための作業が始まった。

「広宣流布」とはつまり、宗教的思想の統一を目指すということ。
それは世のため人のためであって、
反発する人であっても、正しく導いてあげるのだから、どれほど強引だろうとコッチが正義なのだ。。。_| ̄|○

そこに始めから自由はなかったんだ。
。。。ということに今になって気づいた。

夢が叶う系自己啓発と願いが叶う系信心


昔、夢を叶える手帳術みたいなのにハマった時期があった。
アファーメーションがどうのこうの言いながらなりたい自分を思い描き、
マインドマップで頭をクリアにしたり、価値観を発見したり、ミッションステートメントがなんだかんだと・・・

その結果、燃え尽きてしまって、そんでソウカに誘われた・・・という経歴の持ち主です。

無意味であったとは思いませんよ。
でも、
他の誰かのようになろう、
使命に生きよう、
ってのは、どこまでも自己暗示と錯覚であって、
燃え尽きてしまったときには、何も持たなかった人よりも脆い。

そう思います。

2013年6月13日木曜日

自称「リラックマ」の胎児の成長記録









リラックマってもうちょい下ぶくれなんだと気づいたよ。

2013年6月11日火曜日

「彼らは妄想を生きる」




これ、すごく気になって且つ腑に落ちないでいる部分。

私が、現在のソウカへの批判を込めて、
こうあるべきじゃないだろうか、
こういう御書の一節はこういう意味なんじゃないだろうか、
という話をすると、「その通りなんですよ」と言って喜ぶ活動家がいる。

先日も私の話にえらく感動して、
「座談会で紹介したいから原稿を書いてほしい」と
依頼をしてきた婦人部の圏幹部がいた。

「そうなんです。あなたが言ってることは正しい。
そのことを分かってない活動家が多いから、やりにくいんですよ。」

みたいなことを言う。

理想を語る学会員はけっこう良い事を言う。
葬式仏教や権威主義におちぶれた宗門を批判する時にはえらく威勢が良い。
筋も通って聞こえるし、
おすがりでもない、ご利益信仰でもない、依存し妄信させるような不自由なものでもない、
宗教嫌いの日本人が偏見を持つような宗教とは一線を画す団体だと自負していて、
「あれ?この人らの言ってることって正しいんじゃね?」
と、批判的な話をしてるつもりが、結論が同じになってしまうことすらある。

で、結論は同じなのに、その後の行動はまったく相容れない。

そこまでわかっているのに、
彼らが実際にやっていることといえば、
座談会や、本部幹部会の放送で、体験や指導を見聞きしつつ、
新聞の多部数購読の推進
公明党支援のお友達の輪拡大やビラのポスティング、
民音チケットやパンプキン、第三文明等の書籍の内部購入推進、
こちらに書いたような財務の推進・・・。

完全に「金と権力」が活動のメインテーマだ。

その活動の場面に、仏法対話など微塵もないし、
さっき語った理想は、いったいどこで実現されてるわけ?
それって関係なくなくなくなくない????みたいな。

「信じていること(理想)」と「現実」の乖離になぜ気づかないのだろう。
なぜ妄想の世界に身を投じ、
己の実際の行動の意味を見つめようとしないのだろう。。。

「一人をどこまでも大切に」・・・



彼女はトリプルワークになってしまって、
休日もなく、とても忙しく働いている。

午前中の仕事がたまのお休みだった日曜日、
ひさしぶりにお子さんとのんびりした朝を過ごしていたところへ、
「エフ闘争へ!」と婦人部軍団が押し寄せたそうだ。

一人でもいいから対話に行こう。
やると決めないからできないのだ。
これが師匠と共に戦える最後の法戦かもしれない。
法戦(選挙)は「魔」がキツく個人を攻撃してくるから、
組織から離れてはいけない。

彼女は、お子さんを家に一人残し、
出かけたんだそうだ。

こんなことがあったんだよと話した後、
「・・・・・・どう思う?」
と訊ねたその心の内やいかに。

2013年6月10日月曜日

果てしない戯言。



御書だとか経典だとか、それは言葉であって、
言葉っちゅうのは説明なわけで、それは「人フィルター」を介しているわけで。

言葉で語りきれないその奥にあるのが「法」なわけで、
それは各々が見出す以外にないわけで。

御書にはこうある…とかいう類いの論争みたいなものは、全部、
「人に依る人」によって繰り広げられる、果てしない戯言である。
と、私は思います。

2013年6月9日日曜日

「法に依るべし。人に依るべからず。という仏教本来の立場とはちょうど正反対になってしまった。」