2013年2月16日土曜日

信仰と形式。







ご本仏がこう約束されているのだ…だとか、
それが正法なのだから逆らえない…だとか、
そんな言い方をされたことがある。

文証とは、教主と信者との間に交わされた、
悟りや幸福を報酬とした取引の契約書だとでも言うんやろか。

それは自ら見出すことをせず、
権威ある何かの提示する「失敗しそうにない方法」に人生を委ねる生き方。
遠回りせず、危険を犯さず、安全に生きたいという欲だ。

自ら見出すことをやめたのは、
権威に蔑まれ、教育に標準化され、内なる宝珠を見失い、
精神が服従してしまったからだ。







教主との契約を守り伝える教団は問答無用に正義となる。
それは断固守り抜かなければならない。

方法はいつか「活動」と呼ばれ、
そして、本来の目的から離れて行く。

瞬間だけが生だ。
瞬間こそが永遠だ。

三世永遠の幸福もいいが、
生きている今の瞬間を「活動」に生きることは、
永遠に「活動に生きる」ことを意味する。
永遠に「手段」に生きることを意味する。

形式を重んじるとはそういうことだ。