思想としての法華経を仏教の究極とみた日蓮は、なぜ題目を「考案」し、法を体得するには繰り返しの唱が欠かせないと主張したのか。人間の生き方としての思想を広める以前に、当時の社会に蔓延していた現世忌避思想としての念仏を、まずは人びとの口から奪わねばならないと考えたからではないか。
— ana_gonさん (@sinkousya) 2013年1月31日
念仏を唱えることで酩酊状態に陥っている大衆を覚醒させるには、とにかくその口から念仏を駆逐することが絶対条件と考えたのだろう。かといって、新種の酒による別の酩酊を意図したわけでもあるまい。とすると、思想性を伴わない「唱題」にはどんな意味があるのか。
— ana_gonさん (@sinkousya) 2013年1月31日
時の権力者に宛てて提示された「立正安国論」に、唱題の絶対性や「効用」については一切書かれていない。科学時代の今日、日蓮在世当時に比べそれなりの知的レベルにある大衆に、人類共存のための、平和思想としての仏教はどうすれば伝達できるのか。権力ごっこや普請道楽にふけっている場合ではない。
— ana_gonさん (@sinkousya) 2013年1月31日
題目を100万遍、200万遍とあげて、
酩酊状態を誇りながら、"戦い"に明け暮れる人々がいる。
「仏法は勝負」なんて物騒なスローガンを掲げて、
他を排し、異なる意見は折り伏せながら、同化を正義とする。
その先に、平和な共存の世界がある……だろうか。
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