2013年2月3日日曜日

「敏感であるということ」

敏感であるとはどういうことか知っていますか。確かにそれは、物事に対し優しい感情を持つということです。動物が苦しんでいるのを見て何とかしたり、大勢の人が素足で歩くから道の石をどけたり、誰かの車がパンクするかもしれないから道の釘を拾うのです。

それらが自分の物だからというのではなくて、ただ物事のとてつもない美しさに目覚めているからです。

深く敏感になったとたんに、自然に花は摘みません。そこにはものを壊したり、人々を傷つけたりしたくないという自然な願望があり、それが本当の尊敬、愛を持つということです。

心がこの愛の感覚に満たされることはとても重要です。そのとき君たちは幸せな人間になるでしょう。そして幸せだから祈らないし、神を求めもしないでしょう。というのは、幸せ自体が神であるからです。

愛について話をし、愛を感じて、これを養い、宝とすることはとても重要です。そうでなければ、愛はすぐに消失してしまうでしょう。というのは、世間はとても残忍だからです。

しかし、心にこの愛というとてつもないものを持ち、その深み、歓喜、忘我を感じたとたんに、君にとって世界が変容したことを発見するでしょう。

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規則で抑制しているだけのとき、そこには恐怖がある。
権威であったり、飴と鞭を駆使して人を従わせることも同じだ。

わからないから従うのも同じ。
例えば「凡夫の浅知恵」などといって、自他を蔑むのは謙遜の類などではない。
それは、判断して失敗することへの恐怖だ。

恐怖による見せかけの尊敬、
それは服従という。
例えば師弟などという言葉のカラクリに気づけ。

なんの条件も必要なく、私たちは幸せになれる。
それは生まれながらに感受性という宝珠を持っているからだ。