ごく単純な疑問。
本尊を拝する→目の不自由な人は?
声仏事をなす→話せない人は?
大事なのは、見るでも語るでも唱えるでもないのだと思う。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年1月31日
お察しの通りの思いつきツイートです。
しかし、とことん考えれば、
形式を重視する方法で利を得ようとする組織の都合を優先させないためだとか、
ちょっと囚われすぎの心を開放するためだとかに、
使えそうじゃありませんか。
目の不自由な人には、
ご本尊は感じることができれば良いと言うでしょう。
言葉を発することが出来ない人には、
題目を唱えなければ功徳はない...とは言わず、
念ずるだけで良いと言うでしょうね。
「心こそ大切」ってヤツですもの。
ならば、入会、本尊流布、勤行、唱題をはじめ、
「こうしなければ功徳はない」
「このご本尊に祈らなければ功徳はない」
なんていう脅し文句から、
少し逃れて、軽やかになれるんじゃありませんかね。
結局のところ、万人の仏性を信じ、
たとえ異教徒であろうと無信仰者であろうと、
「あなたもまた仏なのです」と手を合わし敬う、
その “心こそ大切” なのだと思うっすよ。
その心が幸いとなって我を飾るのです。
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