われわれは自分の命を生まれたときに始まり死んで終わる個別の分断されたものと思っているが、生まれてから物心つくまでは意識はないが命があることは確かだ。さらに胎児、受精卵…とさかのぼると、自分の命の始まりがどこからかは、まったく曖昧模糊となる。
— Mariko Ueda(植田真理子)さん (@marikobabel) 2013年2月23日
さらに死ぬほうはここまでという境界がはっきりしているようでいて、子をつくれば子に自己の命が受け継がれていくわけだし、たとえ子がないとしても、そもそも他の命から助けられ、他の命を食べたりという、命の連鎖の中で生きている。
— Mariko Ueda(植田真理子)さん (@marikobabel) 2013年2月23日
そういう命の連鎖、ネットワークは一つの「大いなるいのち」といえる。人間が「私の命」と思っているものは、「大いなるいのち」のごく一部分を意識によって切り取ったものなのだ。
— Mariko Ueda(植田真理子)さん (@marikobabel) 2013年2月23日
この「大いなるいのち」を人間はまるきり認識することができない。が、世界の各民族はそれぞれ独自な「大いなるいのち」への洞察をして、それを宗教に仕立て上げたのだ。キリスト教の場合は、それは「神」であった。「神」とは「大いなるいのち」への洞察のひとつのかたちなのだ。
— Mariko Ueda(植田真理子)さん (@marikobabel) 2013年2月23日
私はね、そういう命の連鎖が輪廻だと思うんだ。
死した後、別の命の一部になる。
地球っていう大きな命の中のゆらぎのようなもの。
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