2013年2月3日日曜日

自らを解放するのは「法」を媒介とした自分自身

 非現実的な特別の人格的絶対性を認めず、哲学としての「法」(法華思想)への帰依とその実践を求めるのは、救うものと救われるものといった、二元論からの脱却を促すものとも思える。自らを解放してくれるのはどこか遠くにいる特別な絶対者などではなく、「法」を媒介とした自分自身なのだ、との。(はじめにネンブツありき?:進工舎の人びと)

『思想性を伴わない「唱題」にはどんな意味があるのか』で紹介した@sinkousyaさんの、今から2年前の記事。

依法不依人の法理は、
「先生の真似をする、指示に従う」ものではないどころか、
それを否定するものであって、
法華経の思想を自らの生き方とする実践の推奨。

万人が実践可能な、道理としてある仏法なのに、
神秘的なものを握ってるかのように振る舞う特権階級と、
わからないものには取り敢えずひれ伏し有難がってしまう民衆。

いいや、皆さんはひれ伏す必要はないんだ!と主張したはずの日蓮。

日蓮の思い描いた仏法のあり方と、
現存する教団の主張との差異を考えずにはいられない。

しかしまあ……
模倣の対象と尊敬の対象とは違う。
いつだってどこにだって尊敬できる「先達」って居るんやね。