期待外れで気に入らなかったのだろう方が、
「今までの発言も信じられなくなる。」
って言ってた。
言動が変化したから「これからのあなたはもう信用しない」というなら分かる。
以前の発言まで遡って信用しないというのは、依存のある一種の信仰だったのかもしれん。
なぜ人の言葉を信じるんだ?なぜそれを材料として自分の頭で考えないんだ。信じておいて騙されたと文句を言う。この上なく無責任だと私は思いまする。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年2月19日
信じるということは、その事柄について、判断しないということ。私の言葉など信じてもらっては迷惑だ。宗教と信仰は違う。その意味が解った。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年2月19日
誰かの言葉に感動したり賛同したりする時、
そう受け止めた自分がいるなら、
その誰かが後に手のひらを返そうと、
「私は感動した」という過去の事実は変わらない。
私の言葉なんぞ、信じてもらっては迷惑だ。
せめてご自分で考える材料にしてくれ。
そしたら、考えたのはあなただ。
私がその後に、いかなる変貌を遂げようと、
私はあなたを裏切らないし、あなたになんら迷惑をかけることもない。
その発展型として…
教えに感動し、心で受け止めれば、
教団が手のひらを返しても、教団に見切りをつけるだけで、教えは残る。
それが宗教。
教団が変わってしまった。→ 裏切られた。 →何も信じられない。
それが信仰。
教団にクソ文句を垂れるのは、
大概にしておいた方がいい。
見切れば済む話だ。
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